一章:人と悪魔と精霊と
〜人垣を越えて〜

 朝陽が町を照らす中、セレネが北へと続く大路を進んでいた。海洋学の講義に出席するため、国営塾へと向かっていた。
 彼女は歩を進めるうちに、通行人の数がいつもよりも多いことに気づいた。
(何かあったのかしら? 皆さん、塾の方へ向かわれているようだけど……)
 予想の通り、塾へと近づくにつれて人の数が増えていった。そして、塾を囲むように人垣が出来上がっていた。
(……入塾希望者? それとも、ヴァン先生のファン?)
 少女の思考の前半はともかく後半はあり得ないだろう。
 ルーヴァンス=グレイの性癖は町の皆の知るところだ。嫌煙されこそすれ、好感を得られるはずもない。そして実際、集った者たちはグレイ氏のファン活動にいそしむ愚者ではない。
 しかし、彼らは別の意味で愚かであった。正確なところを知らぬにもかかわらず騒ぎにつられてわざわざ集っただけの、救いようのない馬鹿だった。時にその愚行は命取りとなるというのに。
 人の子の愚かさは光を遠ざけ闇を助長する。
「うっぜーですよ! とっととどきやがるですよ!」
「えっ?」
 ソプラノの暴言を耳に入れ、セレネがぱちくりと瞳をまたたかせる。
 暴言の主は、人垣の外側にいた。ぬばたまの髪をぴょんぴょんと揺らして、愚者たちを罵っている。
(子供?)
「このワタシが派遣されておいて大量に死なれちゃ、第一級トリニテイル術士の沽券に関わりやがるのですよ! マジどけです! 邪魔です! ぶっ殺すですよ!」
 何を言っているのか、さっぱり分からない。その上、物騒だった。
(う、うわぁ…… よく分からないけど、関わらない方がいいかなぁ?)
 セレネは一歩後ろに下がる。
「こっのクソ虫どもが! 脳髄をぶちまけろです!」
(怖っ。別ルートで塾行こうかな)
 もう一歩下がる。
「く、砕け散っちまえなのですよお!」
(あ。でも、ちょっと涙声になってきた)
 ぴたりと、足が止まる。
「ど、どくですよ! じゃま……う、うああああああぁあんッ! ばかあぁあ、ですううぅうっ!」
 道をあけない愚者たちの背を見つめて、女児が泣き叫んだ。
 大きな空色の瞳から、大粒の涙がぽろぽろ零れる。
(……あーあ、泣いちゃった)
 セレネはホワイトのロングスカートをふわりと揺らして、一歩前に出る。
(はぁ、仕方ないなあ)
 人混みの後ろでぽろぽろと雫を落としている子供に、近づいていく。女児の頭にぽんっと手を乗せ、軽く撫でる。
 そして、すぅと大きく息を吸う。
「ボクはセレネ=アントニウス! 国営塾に用があります! 皆さん、どうか道をあけて下さい!」
 ざわッ!
 人垣を形成していた者たちが一斉に振り返る。そして、直ぐさま道をあけた。
 あたかも、かつての預言者が海を二分したかの如くである。
 町の有力者、アントニウス卿のご息女という立場は伊達ではないようだ。
 セレネがにこりと微笑み、すっと手を伸ばす。
「さあ、皆さんが道をあけてくれましたよ。ボクと一緒に行きましょう。ところで、初めましてだと思いますけど、今日から初等科に入塾するのかしら?」
 少女の言葉に、女児が両の手の平でぐしぐしと涙を拭いて首を傾げる。
「入塾? 何を言っていやがるのですか?」
 空色の瞳が訝しげにセレネを見た。
 しかし、彼女は直ぐに微笑む。晴れ渡る空の如く健やかである。
 にこっ。
「よくわからねーですが、助かりやがったのですよ」
 ぺこり。
 暴言ばかり吐いている様からは予想不可能なほど、女児は丁寧に頭を下げた。
(うーん。すっごいギャップ……)
 ぱちくりと瞳を瞬かせて、セレネが苦笑する。
 女児は構わずに言葉を続ける。
「すまねーですが、ワタシは急がないといけねーのです」
 半身を少女へと向けて、彼女は右手をシュタッと上げて見せた。黒き艶やかな髪をなびかせ先を行く。
 そして、瞳を細め、にっこりと笑った。
「またあとでお礼に伺いやがるのですよ、セレネ!」
「え? いきなり呼び捨て? い、いや、それはどうでもいいけど…… ちょっと待って――」
 国営塾へと向けて駆け出した女児を追って、セレネもまた駆け出す。子供のくせに存外足が速いようで、なかなか追いつけない。
 人々の間を抜けて、いよいよ建物が近づいてきた。そこで、セレネはようやく異変に気づく。
(……警邏隊? 事件?)
 どおおぉんッ!
 ひときわ大きな物音が響き、悲鳴が轟いた。
「ちぃ! 下級悪魔ごときが調子に乗っていやがりますね! 鬱陶しいったらねーです!」
「え? え?」
 目の前を駆ける女児の言葉に、セレネの脳が追いつかない。
(下級――アクマ? ……悪……魔……?)
 彼女の言葉が真実であるのなら、この場にはリストールの町を覆っている闇の本体が存在していることになる。
(この子の妄想? でも、警邏隊がいて、さっき悲鳴が……)
「きゃあああああぁあ!」
「うわあああああぁあ!」
 先ほどよりも近いところで悲鳴が響いた。
 声を上げたのは、セレネの左側に佇んでいる男女であった。
 そして、彼らの瞳に映るのは――
『餓鬼を嬲り殺す、か』
 にいぃ。
『こいつぁ、最高の娯楽だな。くくく』
 歪んだ口元も瞳も真紅に染まっていた。
 人足り得ないその姿。
「……あく……ま……?」