二章:光と闇
〜トリニテイル術士〜

 町の南東部は中規模の住宅が軒を連ねており、ルーヴァンスの住まう一軒家もまたその地区にあった。
 二階建ての家屋で、一階には居間とキッチン、バスフロア、トイレ、物置が、二階にはルーヴァンスの自室を含めた五部屋が配置されている。
 男性一人で生活するには少々広すぎる印象がぬぐえない。
「ヴァン以外に誰か住んでいやがるのですか?」
「いいえ。親も妻子もいないもので。独りで暮らしていますよ」
 そう口にしながら、ルーヴァンスがジャケットの内ポケットから鍵を取り出して玄関扉へと向かった。
 彼の様子を目で追いながら、ティアリスがぼそりとこぼす。
「なるほど。嫁ぐにはいい環境でいやがりますね」
「ととと嫁ぐとか、何を言っているんですか、アリスちゃん!」
 過剰な反応を示したのはセレネだ。
 精霊さまがうるさそうに眉をひそめる。
「ったく。セレネはうるせーですね。別に他意はねーですよ。つーか、あれじゃねーですか? てめーこそ嫁ぎたいんじゃ――」
「アリスちゃんッッ!!」
 突然の大音声にルーヴァンスが不思議そうに振り返った。
「どうかしましたか、セレネくん」
 女生徒の頬が瞬時に染まる。
 ぼっ!
「ななななんっ、そ、その、何でもありません、ヴァン先生!」
 真っ赤な顔をした教え子を瞳に映して、ルーヴァンスが首を傾げる。
「そうですか? ならばいいですが…… まあとにかく、どうぞお入りになってください。左に行けば居間があります。お茶をお持ちいたしますので、ソファにでも座っていてください」
 がちゃ。
 家主が扉を開けてレディ二人を迎え入れる。所作は紳士のそれだ。
 普段の変態的な思考や行動は、見事に隠されていた。
 まるで罠だ。
 少女は自ら身を投じている節があるのでいいとして、女児が被害を受けそうなのが心配だった。
 遠からずやって来る不安な行く末を案じる者も無く、時が進む。
「邪魔するですよ」
「し、失礼します!」
 精霊と人の子がすっと扉を潜った。
 セレネはらんらんと輝く瞳を方々へ向ける。興味津々といった様子でふらふらと歩みを進めた。
 一方で、ティアリスは迷い無い歩みで奥を目指す。そのまま居間へと至って革張りのソファにすぅっと腰を下ろす。
 ばふっ。
 小さな身体をふんわりとした羽毛入りのソファに沈めて、彼女は脚を組んだ。純白のドレスの裾から、か細く長いおみ足がのぞいている。
 かちゃかちゃ。
 僅かな物音を立てながらルーヴァンスがティーセットを運んできた。
 彼はあちこちを見て回っている生徒を瞳に映して苦笑する。
「セレネくん。あまり見られるとさすがに恥ずかしいですよ」
「あ! えっと、ごめんなさい! つい……」
 セレネが顔を紅くしてしゅんと縮こまった。
「いえ、構いませんよ。さあ、紅茶をどうぞ。お茶菓子はちょうど切らしていまして、申し訳ない」
 こと。
 家主がほとんど物音を立てず、テーブルにトレイを置いた。
 香りを含んだ湯気が空間に漂う。
「ありがとうございます!」
 にこりと微笑んで、セレネがすっとソファに腰を下した。そして、カップを受け取る。
 ティアリスもまたカップを手に取り、しかし、口をつけることなく、さっそく話を始める。
「では、さっそく本題に入るですが…… ヴァン。てめーは術士――元サタニテイル術士でいやがりますね?」
 早急な問いかけに、ルーヴァンスの動きがびたりと止まる。苦笑してからカップを手に取り、彼女たちの向かい側に腰を下ろした。
 セレネは訝るようにティアリスを見る。
「サタニテイル術士? って何?」
「物を知らねークソ虫でいやがりますね。教えてもかまわねーですか?」
 ティアリスの問いに、ルーヴァンスが頷く。
「ええ。そのうち古代悪魔学の講義で教えることです」
 古代悪魔学は、名前の通り悪魔に関連する歴史や事象について学ぶものである。
 その講義で教わるというのならば、概要は予想できる。
「サタニテイル術は、悪魔の力を借り受けて行使する術のことでいやがりますよ。その術を扱う者が、サタニテイル術士です」
 セレネの顔から血の気が失せる。唇を青くしてブルブル震えている。
「……な、なら、ヴァン先生は――悪魔崇拝者?」
 イルハード正教会の信徒であるセレネにとって、悪魔を敬う者は敵であった。学問として学ぶだけならば許容の範囲内であるが、崇拝するまでいくと容認できるものではない。
 ルーヴァンス=グレイが事実として悪魔崇拝者であるのなら、セレネの心は大切な二つの想いをもってして引き裂かれることとなる。
 しかし幸い、彼女の最悪な予想は裏切られる。
「その短絡思考は必ずしも正しくはねーです。単に力を得るため、術士になる野郎も多いですからね。ヴァンがどうかといえば……」
 視線がルーヴァンスに集まる。
 彼は肩を竦めて自嘲する。
「僕は神も悪魔も信じませんよ。ティアの言うとおり力が――下らない戦争を早期終結させる力を得ることだけが目的でした」
 その言葉にセレネが一息つく。神を信じないというのは嬉しい事実ではないが、少なくとも悪魔を敬わないのは朗報である。共感を得られずとも、反感を抱かぬならば、共に歩めよう。
 ほっと胸をなでおろす。
(けど……)
 少女は安堵した直後に瞳を伏せた。
「戦争…… ロアー南北戦争ですか……?」
 ロアー南北戦争とは十年前に休戦協定が結ばれて終結した大陸統一戦争である。ロアー大陸の北方を統治しているボルネア国と、ルーヴァンスたちが住まう南方のロディール国や西方のマルシャン国の連合軍が衝突した戦争だ。
 彼らは一年間に幾度も戦闘を重ね、半年で連合軍側の兵士と市民が、残りの半年でボルネア軍の大多数が天へと召されたという。
 双方、相当数の被害を受け、ついには休戦と相成ったのだ。
 この時、ボルネア軍に甚大な被害を与えたのが、学問国家ロディールの魔術士隊と、サタニテイル術士隊だった。
 サタニテイル術士は、悪魔から力を借り受けて術を行使する者のことだが、魔術士は、人間自身に備わっている力を用いて術を扱う者のことをいう。人の力は悪魔のもつそれの下位互換であり、『魔』と定義される。そのため、人に備わる力を行使する術士が、『魔』術士と称されるのだ。
 人によっては、力を『魔』ではなく『聖』と定義し、『魔』術士のことを『聖』術士と呼んだりもするが、ロディール国では一般的でない。
 こういった術士は、ごく一般の歩兵や騎兵の数倍以上の強さを誇る。人数自体が少なくとも、数十名、ひょっとすれば数名いるだけで、戦局が大きく変わる。
 とりわけ、サタニテイル術士は強力である。たった一名で、小さな町程度ならば簡単に滅ぼせる。
 ロディール国は、そのような術士を、当時の戦に多数投入していた。
「リストールまでボルネア軍が責めてくることはありませんでしたし、ボクはまだ三、四歳でしたから、ロアー南北戦争について詳しいところを知らないのですけど、ロディール側で活躍したのは神聖騎士団と、少数の魔術士だったと聞いてます」
 ロディール国は、戦場に出ていたボルネア軍を一人として残さずに殲滅し、ロディール側で作戦に参加していた者たちには箝口令を敷いた。体面上、サタニテイル術士に頼ったとは――悪魔に頼ったとは、公表できなかったのだろう。
 そういった事実を推理し、ティアリスが嘆息する。
「人間は相変わらずくだらねーことを気にしやがりますね。そんなに悪魔との関わりを知られたくねーですか。勝てば官軍、とゆー言葉もありやがるですのに」
 精霊の御言葉に、ルーヴァンスが苦笑する。
「まあ、国のお偉方にも色々あるのでしょう」
 どこか含みのある言葉だった。
 少しばかり沈黙してから、彼はゆっくりと口を開く。
「それより、ティア。話の続きをお願いします。僕が元サタニテイル術士だとして、何だというのですか?」
 紅茶をひとすすりして、ルーヴァンスが微笑む。悪魔の力を借り受けていた者とは思えないほど、綺麗な顔立ちをしている。
 多少のショックを受けていたセレネは、ゲンキンにも頬を染めて俯いた。
 ティアリスはティアリスで、口元を笑みの形に歪めて、紅茶をすする。そうして、言葉を紡いだ。
「力の元は違っても、術を扱う基本は変わらねーです。つまり、サタニテイル術士は、他の術を扱う資質も備えていやがる可能性が高いですよ」
「他の術?」
 人界において、一般に知られている術といえば魔術である。
 しかし、精霊であるティアリスのいう術士となれば、人界の物差しで測ってはいけないだろう。
「それは、精霊術ですか?」
 尋ねたルーヴァンスも、紅茶を口にするセレネも、精霊術というものを知識としては知っているが、実際に目の当たりにしたことはない。扱い方も分からない。それどころか、そもそも精霊術を人間が扱えるかどうかも理解していない。
「ちげーですよ。馬鹿ですか。精霊術は精霊にしか使えねーです。馬鹿な会話で時間をとらせねーで欲しいです。まったく、これだからクソ虫は」
 人の子の知識不足を嘆き、精霊さまが呆れ顔で罵詈雑言を連ねた。
 そうしてから、ティアリスはカタリとティーカップをテーブルに置く。右手で黒髪をはらったあと膝に手を置いて、すぅっと息を吸った。
「ヴァン。てめーにはワタシと協力して、トリニテイル術でクソ悪魔どもと戦ってもらうですよ」
『……トリニテイル術?』
 ルーヴァンスとセレネ、双方が訝るように呟いた。
 ティアリスがゆっくりと頷く。
「ワタシは第一級トリニテイル術士。クソ神やクソ虫と共に、このクソみたいな人の世に、奇跡の光をもたらすために来たです」