アントニウス邸の一室で、ヘリオス=アントニウスが眠っていた。刻限は既に昼を回っていたが、全く起きる気配を見せない。気持ちよさそうに寝息を立てている。
彼は連日この調子である。午前中に起床して活動を開始することなどそうそう無い。
貴族の息子とはいえ、毎日昼過ぎまで眠っているというのはいかがなものなのか。とんだ穀つぶしである。
「……すぅすぅ……」
こんこん。
扉が控えめに叩かれた。それから、すうっとゆるやかに開けられた。
隙間から顔を見せたのは、長い金髪が目を惹く女性だった。顔立ちは優しく、ともすれば、気が弱くも見える。
「ヘリオス? ちょっといいですか?」
声を上げたのはセレネとヘリオスの母、ミッシェル=アントニウスであった。スカイブルーのドレスに包まれた身体はか細く、儚げな印象を与える。紅い瞳は大きく無邪気で、二児の母たる彼女を年齢よりも幼く見せた。
ミッシェルはゆっくりとした足取りで息子のベッドに近づいていき、何度も声をかけた。
しかしヘリオスは、訪れた母の声になど気づかず、すやすやと眠っている。
「あ、あの、ヘリオス?」
気持ちよさそうに寝息を立てている息子を、困った顔を浮かべて母が揺さぶる。
ゆさゆさ。
「……すぅすぅ……」
起きる気配はない。
「ヘリオスってば」
再び、母が子の腕を取って声をかけた。
ゆさゆさ。
「……すぅすぅ……」
やはり、全く起きる気配を見せない。
ミッシェルの表情が曇った。紅の瞳には大粒の涙が浮かぶ。
遂には、しゃくり上げる。
「う、うぅ…… へっ、ヘリオスぅ…… ぐすっ」
雰囲気のみならず、行動までも幼子のような女性である。
「っとおおぉお! 起きた! 起きたよ、母さん! 爽やかな朝だね!」
がばっ!
泣き声を耳にした途端、息子が飛び起きた。素早い反応であった。
彼は、ベッドからささっと降りて、おいっちに、さんし、と屈伸運動に勤しむ。
ベッドの脇に腰掛けていた女性は涙をぬぐう。
「ぐしっ…… お、おはよう、ヘリオス」
「おはよう、母さん。どうしたの?」
お早くなく目覚めて尋ねながら、ヘリオスはこっそりと嘆息する。
(やれやれ。泣く子、もとい、泣く親には敵わないよ、まったく……)
子の心、親知らず。ミッシェルは一転、微笑み、両の手をぱちんと合わせる。
部屋へやって来た理由を思い出したようだ。
「あのね、ヘリオス。起き抜けで申し訳ないのですが、お姉さまの様子を確認してきていただけませんか?」
「セリィの?」
セリィ、こと、ヘリオスの姉セレネは、ヘリオスとは違って朝早くに目を覚まし、万全の準備を整えて国営塾へと向かう。当然ながら、昼を過ぎた今頃は、午後の講義を真面目に受けていることだろう。
「様子も何も、塾で勉強してるでしょ? オレは授業ないけど、セリィは今日も朝から晩まで授業詰まってるはずじゃん」
国営塾の授業は選択制である。
セレネは毎日、朝から晩まで授業を入れるという張り切り具合だが、ヘリオスは隔日で二、三コマの授業を入れているに過ぎない。
しかしこれは、ヘリオスのやる気が特別にないというわけではない。どちらかと言えば、セレネのやる気が特別にありすぎるのだ。
普通は、将来就く職業などから履修する学問を絞るため、ヘリオスよりも少し授業数が多いくらいが標準となる。
しかし、セレネは根が真面目すぎるのに加えて、とある事情があることから――ヘリオス的に本当に勘弁して欲しい事情があることから、授業を無駄ともいえるほどに履修してしまっている。
好きな人と出来る限り同じ場所に居たい、という願望に忠実に行動しているのだ。
(オレ、ルーせんせえは好きだけどさ。義兄さんにはなって欲しくないなぁ。心の底から)
そのような息子の心情などつゆ知らず、母は頬に右手をあてがって、にこりと微笑む。
「どうやらですね。詳しくは分からないのですけど、国営塾に悪魔さんが訪問されたそうでして…… メイド曰く『ヤバイ』そうなんですよ」
「……………は?」
突然の情報に、ヘリオスの脳は言葉を受け付けなかった。
沈黙が部屋を満たす。
数十秒後、少年はようよう理解に至る。
「はああああぁあ!? あ、悪魔って! ちょっと待って、母さん! それでセリィは?」
「ですから、それを貴方に確認して来て欲しいのですよ。メイドが騒いでいたので、ちょっとまずいのかなぁって思いまして……」
「いやいやいや! ちょっとじゃないって! だいぶまずいって! そのメイドってどこ! 状況知りたい! 母さんじゃ埒があかない!」
「わたくしもそう思いますわ。えっとぉ、あの娘はですねぇ……」
その後、ヘリオスは苛立ちを必死で抑えながらのヒアリングに心血を注ぎ、くだんのメイドを探し出した。
当のメイドもまた事情を詳らかに把握していたわけではなかったが、国営塾の海洋学講師が殺害されたこと、朝方、国営塾に悪魔が出現したこと、警邏隊員十数名が死傷したこと、などの概略を聞くことができた。
そして、ヘリオスの姉であるセレネは、一連の事件で国営塾が休業になったというのに、アントニウス邸に戻って来ていないという。
(セレネに何かがあれば間違いなく噂になる。それがないってことは無事なんだろうけど…… ああ、もう! 何やってんだよ、あいつ!)
金の髪をかきむしってから、ヘリオスは自室に飛び込む。
いまだ着替えていなかった寝間着をぽんっと脱ぎ捨てて服を着た。シルク素材のモスグリーンのズボンにワインレッドのシャツを入れ、リボンタイを緩く結んだ。
そして、彼は勢いよく陽光ほがらかな青空の下へと飛び出した。