ティアリスが瞳を瞑って集中を始めた。
彼女の内に在る力が背に集う。光がようよう形を成す。
「第二精霊術『天翼(てんよく)』!」
ふわっ。
精霊さまの背に純白の翼が生えた。
(ふわぁ…… 綺麗……)
セレネは天に浮かぶ魔の存在を一時忘れ、見惚れた。
背に生じた白翼と、そこに流れる艶やかな黒髪とが、心と瞳を引き付ける。
「行くですよ、セレネ」
「へっ? あ、その、どこへ?」
黒と白の対比の美しさに魅了されて呆けていた少女は、間の抜けた様子で尋ねた。
ティアリスは応えるよりも前に、セレネの腕を掴む。ばさりと翼をはためかせて、すうっと浮かび上がった。
セレネは足が地面を離れたことにより、不安定さによろめく。
そのような少女へと嘲笑を向け、精霊さまが翼を数回はばたかせる。
ばさり。ばさり。
「馬鹿な質問してんじゃねーですよ。あの黒いのをぶっ飛ばすに決まってるです」
「え、あ、いやああああああああぁあ!」
ぎゅんッ!
急な加速で空を駆け上がる。
ティアリスとセレネが即座に魔人へと迫った。
「第十精霊術『聖打(しょうだ)』!」
飛翔の勢いのままに、ティアリスが黒天に浮かぶ男へと拳を突きだす。
彼女の全身から白き光が溢れ出し、拳へと集った。
光り輝く拳が男の体へと迫る。
黒翼を背負った男は、無気力な顔で両腕を構え、防御の姿勢を取った。
ぱぁんッ!
魔人がはじけ飛んだ。
防御体勢をとったにもかかわらず、衝撃を吸収できずに猛スピードで町の南方へと吹き飛んでいった。
「よし! 追うですよ!」
「ちょ、ま! こわ! こわ!」
「よけーな口は利かねー方がいいですよ。舌、噛んでもしらねーですからね!」
ぎゅんッッ!!
一条の光となって、彼女たちは魔人を追う。
ばしゃあんッッ!!
海面にしぶきが上がった。魔人の姿が水面下へと隠れた。
ティアリスが波打つ海面に向けて右腕をかざす。
「第七精霊術『聖霊弾(しょうれいだん)』!」
どんッ! どんッ! どんッ!
光弾が海面につきささり、ばしゃんばしゃんとしぶきが二度三度と上がる。
セレネはこわばった表情を浮かべて、ティアリスと共に宙に浮かんでいる。今のところ、彼女が何かを為しているということはない。全ては精霊さまの御力が為せる業だ。
「あ、あの、ボクいる?」
慣れない空中散歩に危なげな様子で耐える人の子が、思わずこぼした。
ティアリスは腕から光弾を放ち続けつつ、苦々しい表情を浮かべて言の葉を繰る。
「不本意ながら、ワタシの攻撃は効いてねーですよ。精霊術の威力で対抗できやがるのは顕化術っつー召喚術みてーので人界に生じた下級のクソ悪魔くらいのもんです。魔化術まで使ってきやがるのでしたら、相手が下級のゴミ悪魔とはいえトリニテイル術は必須です」
ティアリスの言葉を証明するように、漆黒の翼を背に生やした男が海面から姿を見せる。顔色は青白く、瞳には生気がない。しかし、ダメージを受けている様子はない。口元に不気味な笑みが浮かんでいる。
ぐおおおおおぉお!
男が獣のようなうなり声を上げると、数十の黒い光弾が生じた。
「ちぃ! セレネ! 両腕を前に出しやがれですっ!」
「ふえ?」
唐突に指示を受けて、セレネが間の抜けた声を発する。ぱちくりと瞳を瞬かせて呆けた。
「とっととしろです!!」
「は、はい!」
苛ついた様子の精霊さまから叱咤され、少女が両の腕を前に突き出す。
魔の者もまた腕をゆっくりとセレネたちに向けて突き出す。
ティアリスが、セレネの腰に軽く手を当てて、瞑目した。すると、セレネの身体に活力とでも呼ぶべき何かが満ちていく。
陽の落ち始めた中で、微かな光が女児と少女を満たした。
一方で、男には闇が集い続ける。その様子は、絶望を強いる黒き太陽の如きであった。
セレネは恐怖で目を瞑り、ティアリスは逆に目を瞠って、前を見た。
神が人界に降臨したかのような眩い光が少女たちへと集い、強く強く輝く。
町中からその輝きは第二の太陽のように見えた。不安を抱く人々に微かな希望を与えた。
ずんッ!
魔人から闇の弾が放たれ、黒い光がセレネたちに迫った。
ティアリスがすぅと息を吸うと同時に、光が収縮した。
「神楯(イルハーズ・ガード)!」
ヴン。
力強い言葉にともって、凝縮された光が再び拡散した。瞬時に、巨大な球状の光の膜が生じた。
光り輝く障壁が、セレネやティアリスのみならず、リストール港全体を覆うように展開された。
ティアリスの言葉を耳に入れて、ちらりと目を開けたセレネは、その様子を瞳に映して安堵したような表情を浮かべ、ほっと小さく息を漏らした。
しかし――
びゅッ! ずどんッ!
黒き弾丸が光を侵食して突き破った。
続いて轟音が響き、港に停泊している船の数隻が倒壊した。
「ええ!?」
てっきり攻撃を防げるものと思っていたセレネが、不満そうに声を上げた。瞳を見開いて、背を向けていた港を振り返る。
海面には火のついた木片が浮かんでおり、港の方々には細かく砕けた瓦礫が転がっていた。惨憺たる有様であった。
ティアリスが舌打ちをする。
(術を扱うことに慣れてねー奴を媒介にしても、広域防御はムリみてーですね。ったく、使えねーです)
ずどんッ! ずどんッ!
黒弾がどんどんと港近郊の家屋や施設にも着弾する。それぞれが倒壊し、爆発した。
「あ、アリスちゃん! どうすれば……?」
「町の被害はあるていど諦めやがるです!」
ティアリスの無慈悲な言葉にともなって、展開していた光の防護壁が縮まる。彼女たちを覆う程度の規模になった。最低限、自分たちの身を護ることを優先することとしたようだ。
そして、セレネの腰にふたたび小さな手が添えられ、活力が満ちる。
「神刀(イルハーズ・ブレイド)!」
ヴン!
光の刃がセレネの腕に生まれた。
「セレネ。剣の心得は?」
「ないないないないッ!」
セレネが慌てて首を振るう。表情はかたく、瞳には涙が浮かんでいる。
宙に浮かんでいる事実、魔人と相対している事実、そして、建造物を粉砕する威力の弾丸が飛び交っている事実。全てが彼女に緊張を強いていた。
一刻も早く逃げ出したい心地だった。
しかし、当然そんなわけにはいかない。
「ちっ、役に立たねーですね。まあいいです。腕を真っ直ぐ前につきだして、目をつぶってろです」
飛行の制御はティアリスの精霊術で行っている。剣を構えてさえ呉れれば、そのまま突っ込むことで攻撃とすることができる。
セレネは言われた通りに諾と刃を構えた。恐怖と混乱に満ちた彼女の頭に、代替案など一つもなかった。
ひゅんッ!
ティアリスがセレネの腰を掴んで、宙を一回転した。そうしてから、闇の存在へと向けて翔る。
魔人化した男が、彼女たちの攻勢から逃れるために上空へと飛び上がった。
「くっそ! めんどくせーですねッ! とっとと死ねです! ボケ魔人ッ!」
暴言を吐いて、ティアリスが背の白翼を羽ばたかせた。
闇の軌跡を光の軌跡が追う。
「第七精霊術『聖霊弾』!」
どどどんッッ!!
男の飛行経路を限定するように光弾が男の周りでいくつも破裂した。リストール港の上空に轟音が響きわたる。
爆煙が海上を満たしたため、ティアリスとセレネの身が隠れた。
(これで詰みです!)
魔人の軌道を読み、ティアリスは翼を操る。
びゅッ!
闇が煙の壁から飛び出してくると、その先に光が待ち受けていた。
魔人はいっしゅん動きを止めるが、すぐさま軌道を変えようとして、黒翼に力を込めた。
しかし、時既に遅し。
「終わりです、クソ魔人!」
光刃が闇を引き裂かんと迫り――
どんッッ!!
突然、町の中央付近から黒い光線が放たれ、二人の周りに展開されていた光の障壁に着弾した。
「なっ!」
「きゃああぁあ!」
意識外の横手からの衝撃に、精霊が驚愕し、少女が悲鳴を上げた。