二章:光と闇
〜海上の攻防〜

 ざぱん! ざぱん!
 ルーヴァンスはオールを懸命に操り、荒波をかき分けて進む。海水がへりを越えて浸入してくる。銀の髪が濡れて額に張り付いていた。
 塩辛い雫が滴り落ちるなか、彼の金の瞳は空を仰ぐ。その視線の先では、いまだ爆煙が消えておらず、ティアリスたちの様子も魔人の様子も詳しくは分からない。
 闇雲にサタニテイル術を行使したとしても、ティアリスやセレネに当たってしまう可能性がある。更に悪くすれば、ルーヴァンスがサタニテイル術を扱うことで、ティアリスが本来の敵と彼を誤ってしまう可能性もある。
(まずは合流すべきか)
 そのように結論付けて、ルーヴァンスが大きく息を吸う。そして、叫ぶ。
「ティア! こちらへ!」
 その声は、爆煙に紛れて魔人の動向を探っていた精霊に届いた。当然、彼女と共に浮遊している少女にも。
 彼女たちは各々に反応を示す。片やとても嬉しそうで、片やとても厭そうだった。
「……ヴァ、ヴァン先生ぇ」
「……出来れば無視してーです」
 それぞれ、紅い瞳と空色の瞳に涙を溜める少女と女児。
 前者は喜びから、後者は慄きから、瞳を濡らした。
「アリスちゃん! ヴァン先生が――ボクの王子さまが助けにきて下さいましたよ!」
「アレが王子とかてめーマジで趣味わりーですよ。ったく」
 顔を近づけ、声を潜めて二人が会話する。
 いまだに爆煙は晴れておらず、それゆえに、魔人からも隠れられている。声を聴かれてはまずい。
 びゅっ!
「っと。あぁ、そりゃーそーですね」
「え?」
 淡々としたティアリスの言葉を耳にして、セレネが首を傾げる。
 それと同時に、海面を衝撃波が襲った。
「ヴァ……むぐっ」
 大きな声を上げようとしたセレネの口を、ティアリスがすばやく塞ぐ。
「せっかく変態が狙われてるのですから、でっかい声だすんじゃねーですよ」
 にっこりと爽やかに、精霊さまが微笑んだ。
「んー! んー!」
 少女が文句を紡ごうと躍起になるが、女児の手の力は存外強く振りほどけない。
 セレネを抑えつけつつ、ティアリスは海面に視線を向ける。
 先ほどの衝撃波によって海面付近の爆煙は晴れてきていた。そのため、海上の小舟がはっきりと見えた。
(防いだですか…… サタニテイル術の同化術ですかね? 指先を傷つけているようですし)
 遠目にも、ルーヴァンスの指から滴っている紅い雫が見て取れた。
 下級の悪魔であれば、血液を捧げるのみで契約が完了する。それでも、術を行使するまでには多くの時間を要するというのがサタニテイル術における常識だ。
 しかし、ルーヴァンスは衝撃波を防ぐ一瞬であれ、即座に悪魔の力を人界に召してみせた。
 そのような事実から判断するに、ルーヴァンス=グレイがサタニテイル術士として一流であることは間違いないだろう。
 サタニテイル術が悪魔の力を利用する一方で、トリニテイル術は神の力を利用する。当然ながら勝手は違うだろう。ゆえに、ルーヴァンスがトリニテイル術をも上手く扱えるかどうか、まだ分からない。
 しかし、年が若く、術士としての経験もないセレネよりは、サタニテイル術士として経験の豊富な彼の方が達者にこなせる可能性は非常に高い。
「……ふんっ。この際、きめーのは我慢してやるですか! 飛ばすですよ、セレネ!」
 ティアリスはそのような結論に達し、顔をしかめながらも、海上で荒波にもまれているルーヴァンスの元へと翔る。
 びゅッ!
「ひゃっ!」
 爆煙をかき分け、ティアリスが白翼をはためかせて進む。
 彼女に手をひかれるセレネは、目をきつく瞑って身を硬くしていた。その手にはもう光の刃はなく、身体の周りにも光の防壁はない。
 ティアリスはトリニテイル術を解除し、空を翔けるための精霊術に力を集中していた。
 セレネは精霊さまが向かう先を瞳に入れて、そして、先の発言を受けて、彼女の考えを瞬時に理解した。術士としてあまり役に立たないセレネには見切りをつけて、ルーヴァンスと共に神の御力を扱おうとしているのだと。
 ルーヴァンスに対して相当な恐怖を抱いていたにもかかわらず、女児は妥協しようとしてくれている。
 少女は有難いと思いつつ、同時に情けなくも感じた。
(うぅ…… ボクがてんで駄目なせいで……)
 こっそりと落ち込んだ。
 事前に練習していたわけでも、コツを聞かされていたわけでもない以上、ぶっつけ本番で上手く立ち回れというのは無茶ぶりも甚だしい。彼女が自責の念にかられる必要など一切ない。
 しかし、港近郊を大々的に破壊される結果となり、そのような中で自分が何も出来ていない事実は、町の代表であるアントニウス家の娘として心を痛めずにはいられないのだろう。
 深く深くため息をつく。
(はああぁあぁ…… 町の方々はご無事かしら? せめて皆にイルハードさまのご加護が――)
 キイッ! びゅん!
 人の子の祈りを遮って、精霊さまが空中で急旋回した。
「きゃあぁあ!」
 女児の小さな手に掴まるのみで空を翔けるのは、なかなかの恐怖を伴う。突然の加速や方向転換が幾度となく繰り返されるならば、その恐ろしさもひとしおというものだ。
 白く輝く翼が生み出した軌跡は、四方八方に散らばっていた。
「ちいっ!」
 ティアリスが大きく舌打ちして、鬱陶しそうに眉根を寄せる。そうしながらも飛行は続ける。決して一所にとどまらない。
 ぎんッ! ぎんッ!
 彼女たちがいた空間を、次から次へと黒い閃光が駆け抜けた。魔人がティアリスたちの存在に気付いて攻撃を再開した。
 黒き力が、ティアリスたちとルーヴァンス――上空と海上の双方に間断なく放たれる。
 精霊さまは白き翼で空間を翔けて回避し、人の子はやはり闇の力でそれを防いだ。
 その激しき攻勢により二者の間はなかなか縮まらない。
「あーもう! うっとーしいですね! こっちはクソ虫ひとり運んでてスピードでねーですのにぃ!」
「あ、あう…… ごめんなさい」
 ティアリスの言葉に、手を引かれて共に風を切っていたセレネが思わず謝った。役に立たないどころか足手まといになっている。そう感じて肩を落とした。
 少女のその様子に、精霊さまが眉をひそめる。
「うっぜーから暗くなってんじゃねーですよ。ったく、しんきくせーです」
「うぅ……」
 とげのある言葉が耳朶に響き、セレネがよりいっそう肩を落とした。
 ティアリスも今度は言葉を発さずにただ嘆息した。
 これ以上テンションを下げられてもいざという時に困ってしまう。場合によっては、再びセレネと共にトリニテイル術を扱わなければならないかもしれない。その時に人の子の心が必要以上に沈んでしまっていたら、術の威力に影響してしまう可能性が高い。
(ふぅ。まったくもってめんどくせーですね。まー、愚かなクソ虫に偉大なワタシが気配りするのもとーぜんですか……)
 あまり気を配れているとは思えない態度や発言ばかりだったが、精霊さまは独りで満足そうに頷いている。
 そのようにしつつ、ティアリスは背中の白い翼を操る。
 びゅんッ!
 彼女たちは魔人の放つ闇の弾丸を一つ、二つ、三つと急旋回で避けた。
 そうして、ようやくルーヴァンスの小舟と合流しようかというところにまで至った、その時――
 きらッ!
 リストールの町の中央が再び鋭く光った。
「なっ――!」
 驚嘆が闇に吸い込まれる。
 ぱあぁんッッ!!
 黒い閃光が海上を一直線に駆け抜けて、白き光を闇色に染めた。