三章:疑いと惑いの夜
〜神と魔の境界〜

 …………………………
 沈黙が流れた。
 その間、ルーヴァンスとティアリス、ミッシェルの紅茶をすする音だけが響いていた。
『パドル神父さま!?』
 双子が仲良く戸惑った声を上げた。
 彼らを瞳に入れて、ルーヴァンスが意外そうに瞠目した。
「おや。セレネくんはともかく、ヘリオスくんは随分と驚きますね。そんなにパドルさんを信頼されていたのですか?」
 問いに対する答えは否だった。
 ヘリオスが首を振りつつ、それでもやはり、驚愕によって視線を泳がせていた。
「いや、信頼は特にしてなかったけど…… そーゆーのよりも、正教会の神父さまが悪魔崇拝者(サタニスト)っていうのが意外すぎてびっくりだし、正教会の教えに熱心でなくったってちょっとはショックが――」
 ことり。
 懸命に紡がれたヘリオスの言葉を遮って、ティアリスがティーカップを置いた。その上で口を挟んだ。
「セレネには言いましたけど、サタニテイル術士っつーのは必ずしも悪魔崇拝者ではねーのですよ、ガキ」
 ヘリオスが言葉に詰まり、黙り込む。
 ガキという呼称には文句を言いたげであるが、指摘自体には納得したようだ。それならまあ、と呟いている。
 一方で、ルーヴァンスが肩を竦めて嗤った。
「ティアの言葉は正しいですけどね。そうは言っても、パドルさんはどうでしょうかねぇ。僕は、彼が悪魔崇拝者でも特に驚きませんよ。熱心な信仰というのは時に大きな絶望となり、悪魔の糧となります。彼が力を望むのみでなかったとしてもおかしくはないでしょう。神に絶望し、悪魔を切望していたとしてもね」
 それは、人界には有りがちな、全く珍しくない筋道だった。
 しかしながら、信仰に生きる愚者には許容しえない愚考だった。
「……彼はイルハード正教会の教皇さまから、この町の大聖堂を任されている立派なお方だ。悪魔崇拝者だなどと口にして、間違いでしたでは済まされないよ、ルーヴァンスくん。そして、ティアリスさま」
 アントニウス卿が低い声を出した。細めた瞳には不信が宿っている。
 そのような町の有力者を、精霊さまが鼻で笑う。
「はっ。クソ神をあがめ奉りやがってる時点で『立派なお方』もクソもねーもんですよ。それに、千年ぐらい前に悪魔が暗躍した事件じゃ、教皇とかいうクソじじいこそが主犯だったらしーですし。『教皇さまから任された』って、もはや悪口でしかねーでしょう」
 再び、爆弾が投下された。
 イルハード正教会のかつての最高責任者が悪魔と通じていたなど、聞き流せる話ではない。
「……そのような史実はありませんが? ティアリスさま」
 マルクァスが即座に否定した。
 この場に集う人界の者たちの知識の上では、彼の指摘は間違いなく正しい。
 しかし、知識は真実でないし、史実は事実とは限らない。
 少なくとも、精霊界における常識からは著しく乖離していた。
「都合のわりーことをもみ消すのはてめーらクソ虫の得意技じゃねーですか。そのくせ、ワタシを嘘つき扱いっつーのはどういう了見ですか、ったく。胸くそわりーですね」
 ぐいっとティーカップをあおってから、ティアリスはマルクァスをきつく睨み付ける。
「そもそも、てめーらの間で聖人君子みてーな扱い受けてるクソ虫――何千年も前に、死んでから蘇ったっつークソ虫の話ですけど、そいつも悪魔と取引していやがったサタニテイル術士で、蘇ったのも、奇跡とかってもてはやされた偉業とやらも、悪魔の力を利用してやってただけで神の奇跡でも何でもねーっつーのはワタシらの間じゃ一般常識……むぐっ」
 軽快に言の葉を操っていた精霊さまの口が急遽塞がれた。
「あ、あの、ティアリスさん。申し訳ないんだけどその辺で…… オレと母さん、ルーせんせえはともかく、父さんとセリィは結構ガチなイルハード正教徒だからさ。その話の真偽のほどはともかく、ちょっと刺激が強すぎるんだよね」
 ヘリオスが半笑いを浮かべながらぼやいた。
 彼の父も姉も、大聖堂への日曜礼拝は決してかかさず、食前には心を込めて天に祈る、『敬虔な』という形容詞がよく似合うイルハード正教会の信徒である。
 一方で、ヘリオスと母のミッシェルは、表面だけを取り繕うおざなりな信徒である。ルーヴァンスに至っては、正教会と極力関わらないようにしている節がある。
 当然ながら、ティアリスの言葉を受けた際の反応は大きく異なる。
 精霊さまが口にした過去の偉人は、五聖人(ごせいじん)と呼ばれる者たちのうちの一人である。正教会は功績の大きい教皇や信徒を聖人と位置付けて崇めている。そのうちで最も位の高い聖人こそが、さまざまな奇跡を起こして、ついには死からの復活を為したという信徒であった。彼は神に愛された結果、神の力を扱えたのだというのが、通説だった。
 しかし、精霊さまの談によれば、かつて聖人が扱った力は魔のモノだったという。
 それが事実だろうと虚構だろうと、波紋は既に広がってしまった。面白くない顔をしている者が二名ほどいた。
 セレネなどはなまじティアリスと関わってしまっているため、少し眉を潜める程度で済んでいるが、マルクァスははっきりと嫌悪を顔に出していた。
 悪くすれば、ティアリスこそが悪魔であり、夕刻時の戦闘は悪魔の策謀、狂言であると判断されてもおかしくはない。