三章:疑いと惑いの夜
〜血六芒星〜

「……ちっ。これだから人間はめんどくせーんですよ」
 小声で精霊さまが毒づく。
 露骨な態度の精霊さまを瞳に入れて苦笑し、ルーヴァンスが小さく手を上げる。
「まあ、過去の偉人について考察するのは、今は置いておきましょう。大切なのは今ではありませんか?」
「そ、そうそう! その通り! さすがルーせんせえ! いいこと言うなあ! な! セリィ?」
 ヘリオスが、必要以上に明るく同意した。双子の姉を肘で突いて、話を合わせるように視線で頼み込んだ。
 ぐっと気持ちを落ち着けて、セレネは、一度深呼吸をした。そして、小さく頷いた。
 確かに、過去の出来事について延々と議論するなど、愚行でしかない。少なくとも、現在の問題を置き去りにして論じている場合では、絶対に無い。
「……そうね。ねえ、パパ? ヴァン先生が悪意ある嘘でパドル神父さまを貶めようとするとも思えません。アリスちゃんの話は置いておくとして、ヴァン先生のお話は無視すべきではないと、ボクは思います。勿論、だからといって勘違いがないとも限りません。まずは、神父さまが悪魔と関係あるのかないのか、その点を神父さまご自身に確認いたしませんか? 残念ながら、万が一に備えて、一旦は拘束せざるを得ないかと思いますけれど」
 マルクァスの表情は懐疑的なままであった。しかし、他ならぬ愛娘の提案とあれば、無下に出来ないのが親心というものだろう。
 そうでなくとも、白と断ずるにしても、黒と断ずるにしても、確認もせずに決めるというのは、正しい判断ではない。
「わかった。ブルタス隊長がこのあと訪れる。まずは警邏隊にパドル神父の所在を確かめさせ、捕えて事情を聞いた上で真偽の程をはっきりさせるとしよう」
「よろしくお願いいたします、卿」
 ルーヴァンスは微笑み、深々と頭を下げる。
 そのような人間たちのやりとりを、精霊さまが二杯目の紅茶をすすりつつ、眺める。
 こくりと数口を飲み下して、嘆息した。
「つーか、そのパドルっつークソ虫、今夜にでもこの屋敷に来るんじゃねーですか?」
『?』
 ティアリスの言葉に数名が首を傾げた。
 パドル=マイクロトフがサタニテイル術士であるかどうかの真偽はともかくとして、彼が今夜にアントニウス邸を訪れる意味がわからない。事実として悪魔と通じている場合、精霊さまが滞在している屋敷をわざわざ訪れるとは思えず、無実である場合も夜中に神父が訪れるような予定も習慣もない。
 マルクァス、セレネ、ヘリオスがそれぞれ腕組みをして考え込んだ。しかし、アントニウス家の面々が熟考しても、神父来訪の心当たりは皆無だった。
 そのような中、ティアリスの真意を理解して肩を竦める者がいた。
「さすがに今日のところはやめておくのではありませんかね。ティアと僕もいることですし」
 ルーヴァンスは、パドル=マイクロトフが来訪する理由に心当たりがあるようだった。
 彼の言葉に疑問を覚えた生徒――セレネが手を上げる。師へと問いを投げかける。
「あの…… どういうことですか、ヴァン先生?」
「六芒星(ヘキサグラム)。サタニテイル術において、悪魔の力を呼び込むために必要なもののうちの一つです」
 ルーヴァンスが指で宙に図形を描きながら、全く答えになっていない単語を口にした。
 当然ながら、いまだに各々の頭には疑問符が浮かんでいる。
 彼らの様子を目にしてルーヴァンスがニコリと微笑んだ。そして、サタニテイル術士としての知識と古代悪魔学講師としての面倒見の良さを発揮した。
「セレネくん、町の地図はありますか?」
「え、あ、はい。誰か、持って来て!」
 セレネが控えていたメイドに声をかけた。
 すると、うち一名が扉の奥へと消え、しばらくして、リストールの町全体が記された布を持ってきた。地図は食事の片付けられた食卓に大きく広げられた。一か月程前に作成された最新のもので、個人宅から共同住宅、貴族の邸宅、果てはごく小さな露店までも記載されている。残念ながら、今回の事件によって港近郊の倉庫などは崩れ落ちてしまっているが……
 ルーヴァンスは同じく用意された羽根ペンを走らせて、布の下方――町の南にある港に丸をつけた。
「最初の被害者はここで殺されましたね。二人目は北東の路肩…… えーと、具体的にどの辺りかご存じですか?」
 ルーヴァンスが視線を向けて問うと、ティアリスは羽根ペンをルーヴァンスの手から奪った。そして、しゅっと、ある箇所に丸をつけた。
 精霊さまは人界に顕現した日のうちに各現場を回って手がかりを探っていた。現場ではいずれも濃い悪魔の気配が残っていた。
「ここでいやがりますよ。んで、三匹目のクソ虫がプチッと潰れたのが、ここです」
 三つ目の丸が町の北西にある家屋を囲むように描かれる。
「アリスちゃん、詳しいですね。というかこれ、上下逆の三角形ですか?」
「そういやそうだな。三辺が同じ長さで、三つの角度も同じで、いわゆる、正三角形だね」
 双子が地図をのぞき込んで、言った。紅き瞳が三つの丸を順番に追った。
 紅の軌跡は三つ角から成る精緻で巨大な図形を形成した。
 彼らと同様に町の縮図を俯瞰し、父が碧き瞳をすぅと細めてゆっくりと頷く。
「なるほど。それで、次が我が屋敷というわけか」
「え? パパ? それは――」
 マルクァスの独白を耳にして戸惑った様子のセレネだったが、数秒考え込むと納得するように頷いた。
「あ。うん。そうですね。確かにこれなら次はうちになります」
「は? 何言ってるの、セリィ? 父さんも何がなるほど?」
 独りヘリオスだけが取り残され、疑問符を頭に浮かべていた。国営塾の講義でもしばしばやる気を欠いている彼は、少しばかり考える力に乏しいようだった。
 普段の行いや心構えこそが肝要だと、阿呆という名の反面教師が示してくれた。
 ちなみに、彼の母ミッシェルは端から理解を放棄しているのか、それとも、そもそも興味がないのか、紅茶を優雅に口に運んで微笑んでいた。ひとりだけ事件にも悪魔にも関心を抱かずに、心安らかに腰掛けていた。セレネは何でもよく気付いて凄いわねーとか、お馬鹿なヘリオスは可愛いわねーとか、親馬鹿を炸裂させているのが多少なりともウザかった。
 ルーヴァンスはそんな奥方には努めて構わず、頭を抱えているヘリオスに助け舟を出した。
「四つ目の事件は町の南東。五つ目の事件は国営塾の裏手、つまり、町の北。この位置関係だけで気づくことはありませんか、ヘリオスくん?」
 尋ねるルーヴァンスは仕方なさそうに肩を竦めて苦笑しているが、表情は慈愛に満ちていた。馬鹿な子ほど可愛いという論理の為せるわざだろう。
 馬鹿とは対極な評価をしばしば受けるセレネは、人知れず双子の弟を妬んだが、わざわざ言及することはしない。そうして、少しずつ少しずつ心に闇を溜めていくのが、完璧な彼女の瑕だった。
 一方で、ヘリオスが師の問いかけを受けて深く考え込んだ。
 彼がここまで悩むことなど、国営塾の授業中でもそうそうない。中々に稀有な光景であった。
 その希少な行為の甲斐があったようで、彼の手がぽんと叩かれた。
「そうか! わかったよ!」
 ヘリオスがティアリスの手にある羽根ペンを借りようと手を伸ばすが、ティアリスは彼から一歩離れてそっぽを向いた。羽根ペンも渡す気がないようだ。彼女の視線からは、うっぜーから近寄るな、とでも言いたげな意思が感じられた。
 ヘリオスは少し気を落としつつ、仕方なしに指で地図をなぞる。
「まずは一つ目の三角形」
 既に丸が描かれている三点をなぞり、三角形を一つ描いた。その後、更に指を遷移させる。南東、北、そして、南西――
「これが二つ目の三角形。南東は四つ目の現場で、五つ目の現場だった国営塾は北、そして、うちを結べば――」
 南西に位置するアントニウス邸を結び、二つ目の三角形を描いた。
 二つの三角形は重なり合い、リストールの町全体で構成される巨大な六つ角の図形を描き出した。
「これが――」
「血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)」
 古代悪魔学の講師がヘリオスの言葉を次いだ。その後、詳らかな説明を始める。
「今回のような場合の六芒星(ヘキサグラム)は現代悪魔学においても、古代悪魔学においても、共通してそのように呼ばれます。血六芒星は魔界と人界をつなぎ、魔の力を人界へと引き込むための世界と世界を繋ぐ門となります。顕化術でも魔化術でも同化術でも、いずれのサタニテイル術を為す場合においても、かの紅き星は欠かすことのできない要となるのです」
 この世界と世界を繋ぐ門は、その大きさと流れた血の量、そして、術士の力量に比例して、人界へと迎え入れる力の量が変わると言われている。つまり、多くの人間を殺し、大きな六芒星を描き、その上で実力が見合っているのならば、より強力な悪魔を人界へ喚び出せるというのだ。
 そして、そのような『希望』を願うがゆえに、人の子は過去にも現在にも未来にも、愚鈍に罪を重ねるのだ。