三章:疑いと惑いの夜
〜望み〜

「あの、ヴァン先生。その門を通ってすっごい悪魔が人界へ来てしまうんですよね?」
「ええ。その通りです、セレネくん」
 暗い顔の教え子を瞳に映して、師が苦笑と共に応える。
 絶望や悲哀が道を開き、或いは単なる力が、或いは強大な悪が人界へと流れ込む。力も、悪も、しばしば更なる悲劇と闇を生み出すのみというに。
 セレネは視線を落としたまま、言葉を続ける。
「なぜ、そのような門を作るのでしょうか? だって、なんでわざわざ悪魔を……」
「悪魔とはすなわち力です。例えば、戦いの勝利を望むなら、当然ながら力を――悪魔を望みましょう」
「でも、もう戦争は終わってます。力なんて必要ないでしょう?」
 人の子の言葉に、精霊さまが肩を竦めて鼻で笑った。
「はっ。セレネは本当にバカなぼけガキですね。てめーらクソ虫はどうしようもねーバカなんですから、戦争なんてなくたって日常で無駄に争って、誰かを殺してーとか、誰かを支配してーとか、誰かや何かを奪いてーとか、クソみてーなことを幾つもウダウダ頭ん中でブン回してるに決まっていやがるですよ。いつだって力を欲しがっていて、いつだって欲に負けやすくって、いつだって悪魔を求めていやがるです。んなこと、ちょっと考えればすぐ分かることじゃありませんか」
「そ、それは、その、完全には否定できない気もするけど…… でも……」
 積極的に肯定もしたくない、と少女の顔には書いてあった。口に出せば、青臭さの残る子供の考えと、精霊さまはやはり嗤うだろう。
 人は欲深く、過去にも現在にも、きっと未来でも、過ちを犯す。
 けれど、欲の全てが悪ではなく、人の軌跡の全てが過ちではない。
「欲深きは幸せを望むがゆえ、と言って、サタニテイル術を『幸せを願う術』と名付けた古代悪魔学の学者もいたそうです。まあ、さすがに平和ボケが過ぎる名称とは思います。当然のことですが、願いがすべて善良だとは限りません。しかし、かといって、すべてが善良でないとも限りません。人とは、人界とは、そういうものですよ」
 誰かを殺したいと呪うのも、誰かを救いたいと想うのも、どちらも強い願いであり、どのような形であれ幸福を求める叫びである。そして、それらの願望は、実行に移すためにはとても大きい力を要する。その時こそきっと、悪魔という名の強い強い力が必要なのだ。
 ルーヴァンスの言葉に、ティアリスはやはり肩を竦め、セレネとヘリオスは微かに苦笑した。そして、ミッシェルは特に表情を変えることもなく、菓子を口に運んでいた。
 マルクァスはというと、特に思うこともないようで、地図へと向けていた厳しい瞳をあげ、ルーヴァンスに視線を投げかける。
「町中を基礎に置いて描き出された血六芒星で喚び出される悪魔は、どの程度の実力になるか見当はつくかね?」
「戦時中にボルネア軍の大隊を殲滅した悪魔と同等のレベルのモノ――『エグリグル』という一団に属する最上級の悪魔が顕れるでしょう。一日と経たずに、この町が壊滅します」
 凄まじい現状があっさりと開示された。
 双子が息を呑む。
 卿も渋い顔で唸った。
 しかし、ミッシェル夫人はやはりぼうっと紅茶を飲んでいる。微笑む様は女神のようでもあり、状況から言って死神のようでもあった。
 精霊さまは精霊さまで特に興味もないようで、無表情だった。