三章:疑いと惑いの夜
〜聖なる瞳〜

「警備強化ですか。それは……」
「やはり人が足りんか?」
 リストールの町の警邏隊は比較的、人員の多い方である。町村によっては数名、悪くすれば一名、二名なところを、リストールでは数十名もの人数が所属している。しかし今は、圧倒的に仕事量が多すぎた。
「はい。国営塾を悪魔が襲撃した折に相当数の隊員が死傷しており、警備などで割かれてしまってただでさえ少ない人手が更に不足している現状です。その上でお屋敷の警備を増やしてしまうとなると、パトロールが半端になってしまうのは間違いないかと……」
 悪魔が明白に姿を顕わした朝夕の事件を契機として、町民は皆、これまで以上に不安を感じている。警邏隊による夜間パトロールが彼らに与える心の安寧は少なくない。濃い闇の中で恐れを抱く憐れな人の子にとっては、微弱な光であっても十分な希望となるのである。当然ながら、決しておざなりに出来ない。
 加えて、いくら襲撃される可能性が高かろうとも、貴族の屋敷だけ警備を重点的に強化するという結論はあり得なかった。不安と不満が募る結果は、それはそれで悪魔の望むところであろう。
 マルクァスもブルタスも共にそのことを重々承知しており、腕を組んで悩ましげにうなった。
 セレネとヘリオス、ルーヴァンスもまた考え込む。
 すると直ぐに、アントニウス家の長男が明るい顔で勢いよく手を上げた。
「そうだ! じゃあさ。全員で宿屋とか、ルーせんせえの家とかに移動すればよくない?」
「よくない」
 直ぐさま、双子の姉が否定した。
「えー、セリィ。何でだよ?」
「ヘリィ。重要なのは血六芒星が完成するかどうかだって分かってる? アントニウス家ゆかりの者はそれで助かるかもしれないけど、どこかの誰かをうちに連れてきて……ってことされたら本末転倒よ」
「あ。そっか。すっごい悪魔が喚び出されたら、町ごと、ひょっとすれば国ごと終わりかもしれないんだよな」
 手を叩いてヘリオスがあっさり納得した。
 セレネは弟の様子を見届けてから、再び熟考した。他人の意見を否定した者の責任として自分も何か意見を出さなければと、微かな責任感にかられているようだ。そして、苦し紛れに言葉を紡ぐ。
「うーんと、この家とその周辺に目を光らせることが大事ですし、となると、家人やご近所さん、みんなで見張る、とかどうでしょうか?」
 はあぁ。
 ため息が聞こえた。
「そっちのクソガキがミラクルバカなだけで、結局、セレネもただのバカガキでいやがりますね、まったく」
 ティアリスがやれやれと頭を振った。
 実際、セレネの提案はあまり利口とは言えなかった。防衛する力のない者――コックやメイドなどの使用人が見張りに立ったとして、あっさり殺されて目的を達せられてしまう可能性が高い。それは近所の町民にしても同様だ。奸計を妨害するよりも寧ろ援助している。
 セレネは事実を事実として受け取りつつも、精霊さまの言い様に腹を立てた。口をとがらせて反駁した。
「むっ。でも、だったらどうしたらいいんですか。アリスちゃんだってさっきから意見だしてないし、いい考えなんてないんでしょ?」
 こくん。
 ティアリスが小馬鹿にした笑みを浮かべて、紅茶をゆっくりと飲み下した。右手でティーカップを持ち、左手ではお行儀悪く頬杖をついている。テーブルの下では細いおみ足を組み替えている。
 彼女の一挙手一投足に人の子が注目していた。マルクァスやヘリオスの瞳には期待が、セレネの瞳には微かな反感が、ミッシェルの瞳には無関心が、ルーヴァンスの瞳には色欲が宿っていた。
 一部の視線を因として表情を歪めるも、精霊さまは居丈高に胸を張った。
「簡単です。こうすればいいのですよ」
 呟いて、ティアリスがゆっくりと目を瞑った。
「第九精霊術『聖なる瞳(ホリィ・アイズ)』」
 ヴン。
 ティアリスを中心として優しい光が伝播していった。光の帯はアントニウス邸を飛び出して広がり、その周辺を覆った。大通りや路地裏、犬小屋すらも囲い込み、ようやく膨張を留めた。
 大きく円らな光の瞳が人界の一画を俯瞰する。
「えっと、何をしたの?」
 代表してセレネが訊いた。
 傍から見ているだけではティアリスが何を為したのかさっぱり分からなかった。春先の昼下がりに大地を照らす、柔らかで芳しい太陽のような光が部屋を駆け抜けただけで、実質的なことは何一つ為されていない。そう感じた。
 しかし、事実はそうではない。
「今の精霊術は監視のための結界を張るものです。ワタシの力でこの屋敷の周囲を覆ったのですが、その内部で起きていることは全て――」
 ティアリスが自身の小さな頭をピッと指さした。
「この才覚溢れるワタシの頭脳に届くのです。だから、不審なクソ虫や悪魔が来やがれば直ぐにわかるっつーわけですよ」
 そこまで口にしてから、彼女は意地悪く笑う。
「ついでに言うと、てめーらがしていることも全部わかりやがるですから、あまり巫山戯たことはしねーんですね。特にヴァン」
 にこっ。
 女児の言葉を耳にして、幾名かは自室でも品行方正であろうと決意した。
 一方で、ルーヴァンスは息づかいを荒くした。何を想像しているのか知りたくもないが、不安を煽る光景であった。
 ティアリスは予想外の反応に胸の前で手を組んで身を引いた。
「……つまり、貴女のみでこの近辺の監視が可能ということかね?」
 変質者然としている町民の一人を努めて気にせず、マルクァスが視線と共に問いを投げかけた。
 ティアリスは、まともな質問を受けて多少は気分が落ち着いたのか、居佇まいを直して黒髪を右手で払いつつ、嗤った。
「そ、その通りですよ、偉ぶったうっぜークソ虫野郎」
 憎まれ口も復活し、絶好調であった。
 暴言だらけの精霊さまの応えに、マルクァスはほんのわずかに顔を顰めた。しかし、すぐに表情を引き締めて頭を下げた。
「なるほど。では、私、マルクァス=アントニウスから改めて依頼しよう。どうか我が家での殺人を阻止し、皆や町を、この国を護り、事件の首謀者を是非とも掴まえていただきたい」
 アントニウス家の主人は、椅子から立ち上がって深く深く礼をした。
 彼に続いて、セレネやヘリオス、ミッシェル、控えている使用人が皆、同様に揃って礼をした。
 ブルタスもまた少し遅れて敬意を示した。
 ルーヴァンスを除く全員が、精霊さまへと最敬礼を捧げた。
「ふんっ。そう頼まれると、逆に無視したくなりやがるのが不思議ですね」
 ティアリスが悪戯っぽく笑い、人の子たちを嘲った。
 それでも、誰も頭を上げずに最上の敬意を払い続ける。
「……頼む」
 しばし、沈黙のみが流れた。
 カタリ。
 ティアリスがティーカップを持ち上げ、残っていた紅茶を飲み干した。
 ごくん。
「まあ、元からワタシはクソ悪魔の企みをぶっ壊せっつー命を受けて人界へ来ているですからね。てめーら如きに頼まれなくたって、エグリグルの悪魔の一匹や二匹や十匹ぐらい余裕で殺(や)ったるですよ。感謝しまくるんですよ、クソ虫ども」
 やる気なさそうに精霊さまが宣誓した。
 彼女は行儀悪くティーカップをぷらぷら揺らし、五杯目の紅茶を所望する。
「すまない。感謝する」
 マルクァスがすっと低頭した。彼に続いて、セレネ、ヘリオス、使用人たち、そして、ブルタスもまた頭を下げた。
「ふんっ。まあ、任せとけですよ」
 ぶるるっ。
 そこで、なぜかティアリスが大きく震えた。
「? どうかしましたか、アリスちゃん?」
「……セレネ。ひとつ教えろです。緊急事態です」
 これまでになく硬い口調が、場に緊張を強いた。
「ま、まさか、悪魔が出たの!? な、何!? 何が聞きたいんですか!?」
「……の場所、です」
「え?」
 小さな声を聞き取れずに、セレネが聞き返した。
 ティアリスは瞳に涙を浮かべて、キッと彼女を睨み付けた。両の手を足の間にはさみ、クネクネしている。
 精霊さまのご様子を目に入れてセレネが察した。
「あ…… ああ、そういうこと。もー、紅茶いっぱい飲むからですよ?」
「う、うるせーです!」
 顔を真っ赤に染めて、ティアリスが小声で毒づいた。
 そんな彼女を真剣な瞳が射貫いた。
「ティア」
「? 何か用でいやがるですか? ヴァン。手短に頼むです」
 ルーヴァンスが、すっと手を差し出す。
「是非、僕も相棒として、お手洗いまでお供してお手伝いをしたいのですが――」
「第十精霊術『聖打』ッッ!!」
 どんッ!
「がっ……」
 変質者が壁にめり込んで気を失った。
 意識は闇に落ち、夜が漸う深まっていった。