四章:闇の先へ
〜善〜

 パドル=マイクロトフが深い闇の中で跪き、長く瞑目していた。その様子は許しを請うようであり、かの者を呪うようでもあり、外れた道を探すようでもあった。彼の背中には決意と迷いが混在していた。
 惑う人の子へと向かって、何処からか生ぬるい風が吹き込んで来た。
『このような暗闇の中でも祈りは欠かさぬか。大儀なことじゃな、人よ』
 パドルの頭に声が響いた。あたかも、風に乗ってパドルの頭の中へと吹き込んだかの如くであった。
 彼はゆっくりと瞳を開き、視線を地に落とす。
「……私は、一体ナニに祈っているのでしょう」
『知らぬよ。ウチが知るわけがなかろう。お主のことじゃ。お主が思考せい』
 くぐもった声につれなく返されて、パドルは苦々しく嗤った。
「それもそうですね。申し訳ございません」
『ふん。それよりも、例の屋敷の周辺を下位の悪魔に探らせたが、精霊の力で覆われていたそうじゃ。恐らくは、近づけば感づかれるじゃろうな』
 彼らが最後の仕上げをしようとしている地は、精霊の加護に包まれている。おいそれとは魔の侵食を受け付けないだろう。
 パドルは望まざるはずの現状を耳にして、どこか安堵したような様子を見せた。
「そうですか。では、今夜は……」
 罪なき者が恐怖に震えるのは望むところではない。パドル=マイクロトフの心には未だにそのような弱さが残っていた。それゆえ、朝陽と夕陽に照らし出された此度の魔の進撃は、彼にとって望まざる断罪であった。例え目的の為とはいえ、悲劇が生まれたのは遺憾であった。
 その上で、月に照らされた夜の闇のなか、狂乱を招き、これ以上の無用な血を流すことは、彼の意にそぐわない。
 しかし、闇の住人は違った。かの者が望むのは、一刻も早い乱世の完遂だった。
『逢魔が時と同様に、サタニテイル術で屋敷を破壊すればよかろう。あまりに威力をあげようものならば奴らに気付かれる危険もあろうが、屋敷を半壊させる程度に抑え、混乱に乗じれば――』
 闇に響くアルトの声に反発するように、パド=マイクロトフは首をゆっくりと横に振った。
 目的のためならば犠牲を厭わない。その覚悟ぐらいは有る。それでも、悲劇は最小限にしたい。ただ目標のみを殺害し、星を完成させたい。彼は闇を進む中にあっても、甘いと嘲られようと、せめてそう願った。
「不要に皆を巻き込むのは本意ではありません。朝方や夕方のようなことはもう…… 明日以降、御屋敷に踏み込むチャンスを窺うようにいたしましょう」
 沈黙が闇に満ちた。
 しばらくして、風が流れる。
『ふん。まあよいじゃろう。お主の足掻きを尊重してやる。多少の留意はしようぞ』
「よろしくお願いいたします」
 頭を深く下げたあと、パドルは再び祈りの姿勢をとった。
 しかし、かの者に対して『祈る』ことは、決してもうない。それだけは確かだった。ただ習慣として、信仰に依らぬ、無益な祈祷を誰にでもなく捧げた。
 風が、嗤いながら駆け抜けていった。