四章:闇の先へ
〜疑似的な絆〜

 晴れ渡った夜天には星々が煌めき月がたゆたう。神も悪魔も人間も精霊も一切が関係なく、静けさだけが世に満ちていた。
 がちゃ。
 アントニウス邸の一室で窓が開かれた。南風が潮の香りを屋内へと運んだ。
 銀の髪を撫でられた人の子は夜天を仰ぎ、金の瞳に夜を映した。その目を細めて小さく息を吐き、深刻な面持ちで肩を落とした。
 彼――ルーヴァンス=グレイの隣には、部屋の主であるヘリオス=アントニウスがいた。紅き瞳に怪訝の陰が宿った。
「どったの、ルーせんせえ?」
 不思議そうに小首を傾げると、煌めく金の髪がさらりと揺れた。蝋燭の微かな明かりに照っていた。
 光の照射と紅の視線を受け止めて、ルーヴァンスは更に大きく嘆息した。
「はあぁあ。いえですね。なぜティアと同室でないのかと」
「当たり前じゃん? 頭だいじょぶ?」
 即答だった。
 ヘリオスの暴言に、ルーヴァンスは怒ることなく笑った。強がっている様子もなくごく自然に笑ったのだ。
 そして、彼はそのまま持論にしがみつく。
「僕はティアの相棒ですし、同室が絶対によいと考えるのですが如何でしょう」
 胸を張ってふんぞり返る様がどうしようもなく鬱陶しかった。心の狭い者であれば、一発や二発くらいは殴りたくなったに違いない。しかし幸い哉、この場にいる十四歳は年の割に人間が出来ていた。
 ヘリオスは腹を立てることなく寧ろあきれ果て、その上で、伝えねばならぬ真実を口にした。
「せんせえが壁にめり込んで気を失ったあと、ティアリスさん、このクソ野郎は『暫定の』相棒です、って力強く言い切ってたよ。これからは接触も会話も最小限にして食事の時間も別々にしたいって。あと、今回の件が落ち着いたらルーせんせえは投獄すべきって力説してた」
「え? な、なぜですか!?」
 ルーヴァンス=グレイのことを多少なりとも理解している者ならば間違いなく得心するだろう主張を受けて、当のルーヴァンスはこれ以上ないほどに当惑した。自己分析が全くできていないご様子だ。
「いやー、なぜも何も…… あれじゃない? 嫌だからじゃない?」
 単純な論理だった。単純すぎるがゆえに覆すことが難しい。
「そんなことはあり得ません!」
 容易に覆された。なぜか自信満々に胸を張り、声を大にして変態が断言したのだ。
 世論は間違いなく、そんなはずないはずはない、という結論へと傾くだろうに。人界は斯くも不条理か。
 コン、コン。
「どーぞー」
 ノックの音を耳に入れて、ヘリオスが紅い瞳を扉へと向けて直ぐに緩く返事をした。
 キィ。
「あ、あの、ヴァン先生? 何だか盛り上がっておいでですが、ヘリィと何をお話しされているのですか?」
 扉がゆっくりと開かれ、その隙間から部屋の主と同じ紅き瞳がのぞきこんだ。
 洗い髪をアップにしたセレネが純白の絹のパジャマ姿で現れた。彼女の部屋の客人たる精霊さまと湯浴みを済ませて寛いでいたところ、目を覚ました変質者の声が響いてきたために気になってやって来たのだろう。
 彼女の部屋はルーヴァンスが滞在することになった部屋――ヘリオスの部屋の直ぐ隣だった。
「なんだよ、セリィ。普段はオレの部屋になんて来ないくせに」
 ニヤニヤと含みのある笑みを浮かべて、ヘリオスが言った。
 セレネは瞬時に頬を桜色へと変じ、声を荒げた。
「べ、別に何となくよ! 何となく! いや、っていうか、あれだもん! あまりにうるさいから文句を言いに――」
「あぁ、それもそうですね。確かにうるさくしてしまいました。すみません、セレネくん」
 変質者が変質者らしさを微塵も見せずににっこりと微笑んで謝罪した。
「あ、いや、その、そうじゃなくて、あう……」
 部屋に入ることなく、扉の前で叫んだり、もじもじしたりしているセレネ。
 そんな彼女の膝裏が勢いよく蹴られた。
 ガシッ。
「きゃっ!」
「ったく、邪魔うぜーです。とっとと入りやがれですよ」
 バランスを崩して倒れ込んだセレネの後ろで、瞳と同じ空色のパジャマに身を包んだティアリスが腕を組んでふんぞり返っていた。壁に掛かる蝋燭の火の光を受けて、濡れ髪が黒く輝いていた。
「ティア!」
 ルーヴァンスが名を呼んで駆け寄ろうとした。しかし――
「よ、寄るじゃねーですよ、変態! 第七精霊術『聖霊弾』!」
 びゅんっ! がっ!
 高出力の光弾が放たれ、変質者が勢いよく吹き飛ばされた。
 ルーヴァンスはヘリオスの部屋の壁にぶつかって大きな亀裂を生み出し、ぼろ雑巾のように地面に転がった。
 涙目になりながらも、精霊さまは居丈高に伏す人の子を睥睨した。
「……ヴァン。てめーはトリニテイル術を使う時以外、ワタシに近寄るのを禁止するです。理由はクソきめーからです。分かったですね」
「……はい……」
 肩を落としてルーヴァンスが弱弱しく頷いた。
 傷の増えた彼を瞳に映して、セレネは部屋の入口で立ち尽くし、悲しそうでいて嬉しそうな、複雑な表情を浮かべた。彼らの不和は遺憾であったが、ある意味において愉快でもあった。
「あの、アリスちゃん? 必要以上に仲良くされても困るので、そういう意味では一切問題ないのですが、それはともかくとして、ちょっとやり過ぎではないでしょうか?」
「なら、仲良くお手々でもつないでやろーですか?」
 意地悪く笑いながら肩を竦め、ティアリスが言った。しかし直ぐさま、んなことはご免ですが、とつれない言葉を吐いた。
 流石は暫定の相棒関係だ、とヘリオスが苦笑した。そうしてから、疑問をぶつける。
「っていうかさ、セリィもティアリスさんも何しにきたの? さっきセリィが言ったみたいに、文句言いに?」
「まあ、それもありやがるですよ。くつろいでるとこにヴァンの声が聞こえるだけでうっぜーですし」
 双子の弟が激しく同意した。
 双子の姉は著しく当惑した。
「な、何いってるの、アリスちゃん? 仰っている意味が全く分かりませんよ? 自分の部屋でヴァン先生のお声を聞けるなんて、まさに極上の幸せですよ? 何事にも勝る天国ですよ?」
 それはないなぁ、とヘリオスが頭を振った。
 一方で、ティアリスは双子の姉も弟も平等に無視して、ルーヴァンスへと何かを投げて渡した。
「本題はコレです。持ってろです」
 ぱしっと投げられた物を受け取り、人の子が首を傾げた。
 ルーヴァンスの手に収まっているのは、翠星石が散りばめられた金の髪飾りだった。
「これは?」
「このあいだバカな知人に貰った髪飾りです。全っ然、気に入らねーもんで、つける気が微塵も起きなかったんですが、さすがに捨てるのは忍びねーんで持ち歩いていたのですよ」
 ティアリスは肩を竦めてため息をついた。
 苛立たしげな彼女を訝るように見つめつつ、ルーヴァンスは首を傾げた。
 精霊さまが豪奢な装飾品を好んでいないことはよく分かったが、それを人の子に下賜する意味はさっぱり分からなかった。
「はあ…… それで、その髪飾りをなぜ僕に投げて寄越すのですか?」
 疑問たっぷりの表情を浮かべて、ルーヴァンスが尋ねた。
 すると、ティアリスは大きなため息をついて、本当に心の底から嫌そうに顔を顰めた。
「あー、なんつーかですね……」
 精霊さまは言い淀んでから、覚悟を決めたように一度頷いて先を続けた。
「トリニテイル術はクソ神と精霊、そして、人界に蔓延るクソ虫どもとの相互理解が術の威力に多大な影響を与えるのです。今回で言うのなら、イルハードとワタシと、ヴァン、てめーですね。ただ、てめーみてーなクソ変態野郎と相互理解なんてまっぴらご免っつー切実な事情はもとより、高々一日二日の短時間で理解し合うなんて、どんなに気の合う相手だったとしてもまずムリだろっつーのが現実です。ましてやてめーとなんて…… はっ」
 話の途上にて鼻で嗤った。
 それはそうだろうと、傍で見ていた双子が苦笑しつつも得心した。
 話が先へと進む。
「当然、ワタシも人並みにヴァンを嫌悪してはいるのですが、まー、とはいえです。パドルとかいうクソ虫が何をしてくるか分かんねー以上、可能な限りトリニテイル術の威力を上げておきてーのも事実です。で、苦肉の策ではありやがるのですが、ちょっとした裏技を使うことにしたのですよ」
「裏技、ですか?」
 話の筋の見当すらつけられず、セレネが心底から不思議そうに訊ねた。
 ルーヴァンスやヘリオスもまたそれぞれ首を傾げていた。
 精霊さまは彼らをゆっくりと見渡して、不満顔で頷いた。変質者との仲を多少なりとも改善しかねない行動が甚だ不本意なのだろう。苛立たしげに床を踏みつけていた。
 床板が耐え切れずに悲鳴を上げるなか、精霊さまは全てを憎悪するかの如く眼前を睨みつけた。世に満ちる不条理を憎み、高慢ちきな神を恨んでいた。
「不本意ながら、本っ気で不本意ながら、精霊とクソ虫の間に多少の繋がりを手軽に生み出せる方法があるです。それは――それぞれが相手の持ち物を所有する。それだけです。その相互所有によって、微かながらの連帯感が精霊と人の間に生まれやがって、ものっそい本っっ気で不本意ですが、トリニテイル術の威力が増すっつー寸法なのですよ」
 それは、あたかも一生を共にする男女が指輪を渡し合うが如くだった。
 しかし、ルーヴァンスとティアリスの間には利益以外を期待するような想いは決してない。当然ながら、愛情や恋慕など微塵もない。
 少なくとも、ティアリス側には、一切ない。空色の瞳が黒く濁っている様からもそれは明らかだった。
 それでも、ルーヴァンスは銀の髪を振り乱し、鼻息をふんふんと荒くして、異様な程に嬉しそうにしていた。その様子はとてもとてもとても気持ちが悪かった。金の瞳もまたギラギラと乱反射しており、路上であれば警邏隊に連行されること必至だった。しかし幸いか、或いは不幸か、この場は路上ではなく、通報する者も警邏隊員も居なかった。
「なな、なるほど! では、ぐへ! ぐへへ! ぼ、僕も何か渡さないといけませんねぇ! ぐへへへへ!」
 変態ここに極まれり。怖気が一帯を支配した。
「……なんか袋とかに入れてよこしやがれですよ。正直、きめーんで直接触りたくねーです。というか、出来ればてめーはとっとと天に召されろですよ。心の底から。真剣に。切実に」
 女児が真っ直ぐな感想を素直に口にした。
 その論旨は、言葉が過ぎるとの反発を受ける可能性はあり得ても、基本的には世論を味方につけられる妥当なものだった。
 ゆえに、そこに正当性を見出した変態当人もまた、多少の反省を踏まえ、努めて不気味な笑みを引込めた。
「ふむ。袋ですか。承知いたしました。ヘリオスくん。何か入れ物をお持ちですか?」
「……そうやって本性隠せるならいつも気をつけてなよ、ルーせんせえ。ドン引きだよ」
 本当に唐突に真面目な人物然と化したルーヴァンスを瞳に入れて、ヘリオスは頭を抱えた。
 しかし、直ぐに気を取り直した様子でかぶりを振って、自室の机へと歩み寄った。抽斗に手をかけつつ、苦笑を浮かべた。
「いや、まあ、今はそれはいいか。んっとねー。ボードゲームの駒入れてる袋ならあるよ。でもさぁ、せんせえはそれでいいの? ばい菌扱いだよ?」
 ごもっともな疑問を抱きつつ、部屋の主は抽斗の中にあった麻布製の袋を手にして口を開けた。そこから木製の駒を全て取り出し、袋だけにして、師へと手渡した。
 ルーヴァンスはそれを受け取って、良い笑顔を浮かべた。
「勿論、構いません。女児に罵倒されるのも悪くありませんね」
 人よりも学があるお方がきりっとした表情を浮かべて、人の道のギリギリ崖っぷちを余裕で飛び降りていると言ってもいい、残念で無念な底辺の言葉を吐いた。
(もー、ブルタス隊長呼んだ方がいいのかなー)
 そろそろ限界を感じ始めた十四歳の少年であった。
 一方、二十四歳のいい大人は全く気にしていなかった。自然な面持ちと動作で、懐から出した何かを袋に入れた。その口を紐で縛り、そして、そのままティアリスへと投げて渡した。
「どうぞ、ティア」
 ぱしっ。
 受け取った精霊さまは、変質者が一時的に触れた袋ですら嫌悪しているようだった。親指と人差し指だけでつまんでいる。
「……がまんがまん…… すぅ、はぁ。ご苦労ですよ。んじゃ、もう用はねーですし、戻るです。このクソ虫野郎が」
 逃げるように去ろうとした女児の顔色は死人かのように青白かったが、暴言だけは壮健だった。
 回れ右をしたティアリスを目にして、セレネが残念そうに眉を下げた。
「え? え? せっかくなのでヴァン先生とお喋りとか……」
「そうしたけりゃ、てめーだけ残りやがれです。ワタシはご免ですよ」
 べえっと舌をだし、女児が駆け足で去って行く。
 残されたセレネは、廊下を駆け行くティアリスの背中と部屋の内のルーヴァンスを交互に見た。それから、ルーヴァンスを一秒ほど見つめてボッと頬を染めた。
 夜中に自宅で共に居るという現状に想いが溢れ出でてしまったようだ。
 少女は紅く染まった顔を隠すように、慌ててぺこりと頭を下げる。
「や、やっぱり、ボクも戻ります。おやすみなさい、ヴァン先生」
「ええ。おやすみなさい、セレネくん」
 キィ。パタン。
 扉が閉まり、部屋にはルーヴァンスとヘリオスだけが残された。
 男二人だけの空間をしばし沈黙が満たした。
「……えっと、ルーせんせえ? 肉体的にも精神的にもアレだった気がするけど、だいじょぶ?」
 ヘリオスが遠慮がちに訊ねた。
 精霊術で壁に激突したり、邪険にされ続けたりと、散々な結果となったルーヴァンスがさすがに気落ちしているのでは、と気遣った結果なのだが――
「いやあ。ティアは可愛いですねえ。パジャマ姿が天使のようでしたよ。ねえ、ヘリオスくん?」
 無用の心配だった。
(……めげない人だなぁ……)