四章:闇の先へ
〜ガールズトーク〜

 パタン。
「あの、アリスちゃん? もう少しヴァン先生と仲良くしてもよいのではありませんか? ほら、トリニテイル術って仲良しでいることも大事なんでしょう? なら――」
 自室に戻って直ぐ、セレネが言った。
 ティアリスはベッドに移動してポンッと軽やかに座った。黒髪をばさりと払って少女に空色の瞳を向け、小さな肩を竦めた。
「ご免こうむりやがります。あんな変態と仲良くするとかあり得ねーですよ」
「う…… た、確かにヴァン先生はちょっとアレな人だけど、格好いいし、優しいし、物知りだし、いい人だし、指の形が綺麗だし、声も素敵だし、それから――」
「はっ!」
 精霊さまが指折り数える人の子を鼻で嗤った。
「よくもまあ、あの変態のいいとこ探しがそんなにいっぱい出来るですね」
 恋する乙女の欲目というやつだろう。
 その乙女の視線がティアリスの右手に向いた。
 そこには、ルーヴァンスから渡された袋が握られていた。
「ヴァン先生、何を入れたんですか?」
 少女の好奇心を受けてティアリスが一瞬きょとんとした。
 突然だったために何のことだか直ぐには分からなかったようだ。しかし、直ぐに彼女の意図を理解したようで、袋をセレネへと放って投げた。
「知らねーですよ。知りたくもねーです。見たきゃ勝手に見やがれです」
 ぱしっ。
 セレネは両の手で大事そうに袋をキャッチして、それを上下左右からまじまじと見た。
「でも、ボクが見てもいいのかなぁ」
 そうは言いつつもとてつもなく気になるようで、彼女は視線を袋から決して外さない。
 精霊さまは呆れた様子で嘆息し、
「ワタシが許すです」
 あっさりと言い切った。
 ルーヴァンスの意思でティアリスに譲渡された以上、袋の中身は今やティアリスのものであると言っても過言ではない。なれば、彼女の許可は正当なものであるとも言えた。
(いいのかな? でもまあ、いいのかな。それに、正直、見たいし……)
 セレネはしばし逡巡していたが、好奇心に負け、本能に忠実に袋の口を縛っている紐に手をかけた。しゅっと勢いよくそれをほどいて中に爛々と輝く紅き瞳を向けた。
 そこには、丸い形のペンダントがあった。
「これ、ロケットペンダント? もしかして、ボクの絵が入ってたりして……」
 乙女が夢見がちに遠くを見て、耳まで薄紅色に染めた。
 しかし残念ながら、第三者の視点から判断するに、ルーヴァンス=グレイがアントニウス家のお嬢さまにご執心であるようには決して見えない。本日知り合ったティアリスであってもそう判断した。
 やはり、ロケットペンダントに秘められているのは違う想いだろう。
「まったく。セレネはポジティブバカでいやがりますね。ある意味うらやましいですよ」
 精霊さまの鋭い指摘を華麗にスルーしてセレネが細工をいじると、蓋があっさりと開いた。
 ペンダントに収められていたのは、銀髪と金の瞳を携えた女児だった。幾ばくかの年数を重ねているようで、微笑みを浮かべる絵は少し色あせていた。
「ヴァン先生に似てる…… 妹さんでしょうか?」
 セレネが少しばかり残念そうに、それでいて安堵したように、言った。
 彼女の手の内に収まる銀髪の女児へちらりと視線を向けてから、ティアリスは少しばかり顔をしかめた。しかし、直ぐに口元を歪めて、この場に居ない変態を嘲笑った。
「はっ。ロリコンな上にシスコンとは、とんでもねークソ変態野郎ですね」
 悪態を吐いてから、ティアリスが細い身体で伸びをした。
 薄手のパジャマが凹凸のない身体を浮き彫りにしていた。見る者によっては非常に扇情的だった。それこそ、ルーヴァンス=グレイという名の変態にとっては……
 この場に彼が居ないのは実に僥倖であった。
 女子のみの空間で、変質者に襲われない素晴らしき平和を噛みしめ、ティアリスがか細いおみ足をぷらぷらさせた。彼女の表情は心持ち柔らかい。壁一枚隔てるだけでも心に平穏は訪れるのだ。
 にぱっと機嫌良さそうに微笑んで、精霊さまは口元に手を当てて小さなあくびをした。
「ふあぁあ。……ねっみーです。今夜寝ない分、明日は張り切って昼寝してやるですよ」
 しょぼしょぼとした空色の瞳を擦りつつ、宣言した。
 ティアリスの精霊としての力――聖なる瞳(ホリィ・アイズ)こそが周囲に監視の目を光らせている以上、彼女は夜通し襲撃に備えている必要がある。せめて夜の闇が晴れ、人の心の影が薄れる朝までは。
 ゆえに、小さな小さな精霊さまは、いくら眠くても何とかして起きていなければならなかった。
 とっ。
 ベッドから降りて、ティアリスが壁際の本棚へと向かった。収まっている書籍を取り出してパラパラとページをめくり始めた。
 何もせずに退屈でいるよりは、知識欲を満たして過ごした方が眠気を退けられると考えたのだろう。
「……色恋沙汰の物語ばっかですね。流石はコイスルオトメです」
「……何か引っかかりますね。まあ、いいけど。それよりもこの袋、アリスちゃんが持ってないと駄目なんですよね。はい、どうぞ」
 含みのある言葉尻の女児に対して唇を尖らせた少女だったが、直ぐに笑みを浮かべてペンダント入りの袋を手渡した。
 ルーヴァンスから受け取った彼の持ち物は、トリニテイル術の威力を上げるという実益を得るために手に入れたのだ。精霊さまが持っていなくては何の意味もない。
 ティアリスは汚物を扱うような嫌そうな動作でありながらも、何とかぎこちなく受け取った。
「うえっ。ヴァン菌が伝染りそうです」
「何ですかもぉ。ヴァン菌って。何だか素敵な響きですねっ」
 ほぅ、と愛おしそうに、ヴァン菌が付着していると思しき袋を見つめる少女。
「……うわ。あんたも大概でいやがりますね。マジ死んだ方がいいですよ」
 恋する乙女というのは斯くも気色の悪い――もとい、盲目的なものであっただろうか。ティアリスは顔を引き攣らせてそのように素直な感想を抱いた。
「酷くありません?!」
「正直、文句言われる筋合いのないごく一般的な反応だと思いますけど、まあ、それはいいです。んなことより、セレネはワタシに構わねーで寝やがったらどうですか? この調子で絡まれてもうっぜーですし。それとも、ヴァンに夜這いでも掛けに行きやがるですか?」
「い、行かないよ! アリスちゃんはボクを何だと思ってるんですかッ!」
「変態好きの変態だと思っているです」
 真面目な表情で女児が言い切った。間違ってはいない。
 ぎし。
 ベットに腰掛けて、セレネがため息をついた。紅の瞳が伏せられ、金の髪がふさりと垂れた。
「もぉ…… とにかく、ヴァン先生のとこには行かないし、まだ眠くないし…… あ、そうです。せっかくですしお話でもしませんか?」
 提案を受けて、ティアリスは心底嫌そうに眉を潜めた。
 しかし、少女の紅い瞳には好奇心の光がふんだんに込められており、面倒だからという理由のみでは覆せない力強さを秘めていた。
 下手に逆らうと余計に体力を奪われそうだと感じた女児は、諦観のため息とともに首肯した。
「まあ、別にかまわねーですよ。手短に頼みます」
「やった」
 セレネは嬉しそうに手を叩き、ぎゅっと枕を抱きしめて、座り直した。そして、ベッドをぽんぽんと叩いて示した。
 弾力のある寝心地の良さそうな寝具が揺れた。
「じゃあ、アリスちゃんもここに座ってくださいね。ガールズトーク……でいいのかな? そういえば、アリスちゃんって何歳ですか?」
 改めて、精霊さまが『ガールズ』のくくりに入るのかどうか、気になったようである。見た目通りならば当然ガールだろうが、そうでない可能性の方が高い。
 ティアリスは一冊の書籍を両手で抱えつつベッドへと向かい、ポンッと軽やかに座った。
 ちなみに、彼女の腕に収まっているのは『動物百科』だった。陸海問わず、大小問わず、あらゆる動物が載っており数百ページにも及ぶ。明朝までの暇つぶしには持って来いだろう。
 女児はベッドにばふっと寝っころがって書籍をぱらぱらとめくり、少女の質問に対して考え込んだ。
「年ですか? んー、八十歳くらいのはずですね。めんどくせーんで正確には数えてねーんですが」
「あ、思ったよりも若いんだ……」
 人知を越えた精霊さまともなれば、何千年と生きていてもおかしくはない。そのように考えていたセレネは、肩すかしを食らったように微妙な表情を浮かべた。
 その様子が気に入らなかったのか、ティアリスが眉をしかめて胸を張った。
「その反応は甚だ不本意ですよ、クソ虫! ワタシは、ワタシがワタシとして発生する前の精霊としての記憶もちょっとは持っているですからね! 八十歳という若輩だからといってあまりなめねーでもらいたいものです!」
「?」
 精霊さまが何を言っているのか分からなかったのだろう。人の子は首を傾げたままの姿勢で固まった。
 ティアリスは相手が理解していないことを素早く察して、馬鹿にしたように嗤いつつ肩を竦めた。
「流石はクソ虫です。アホを相手にするのは大変ですよ、まったく」
 相も変わらず暴言が絶好調だ。
「あはは。ごめんなさい」
 もはや慣れてしまった人の子は優しい笑みで受け流した。
 セレネが下手に出たことで気をよくしたのだろう。ティアリスは満足げに瞳を閉じて右手の指を振りつつ、説明を始めた。
「精霊はクソ虫どもみてーにぽんぽん新しく生まれるわけじゃねーんですよ。一つの命が永遠に在り続ける、循環生命(じゅんかんせいめい)です」
「循環生命?」
 初めて耳にする単語が飛び出た。セレネが不思議そうに尋ねた。
 ティアリスはぱらぱらと書籍の頁をめくりながら応じる。
「そうですね。循環生命をガキにもわかるようにかみ砕いてやると、死んでも生き返る、っつーのに近いですかね。何かの拍子に精霊が消滅したとして、消滅した奴と同じ命を持った精霊が精霊界で生まれるです。精霊の魂は永久に有り続け、増えることも減ることもありません。なので、精霊っつーのは原初にクソ神が作った百人しかいねーんです」
 セレネは紅眼を伏せて、ティアリスの言葉をゆっくりと頭の中でかみ砕く。自分なりに理解してから顔を上げた。
「じゃあ、アリスちゃんは実質、何億歳ってことなの?」
「間違ってはいねーです。ただ、記憶が全部あるわけじゃねーですので、やっぱり、生まれ直した八十年前から数えるのが、正しい年齢な気がするですね」
「ふーん」
 年数の規模が大きすぎて実感がわかないのだろう。セレネが生返事をした。そして、しばし考え込み、それから、うんうんと頷いて見せた。
「なるほど。ってことは、ガールズトークっていうよりは、お祖母ちゃんにお話をせがむ、みたいなシチュエーションなんですね」
 にこっ。
 悪気も他意もない純粋な笑顔だった。
「……意外と言いやがるですね、てめー」
 こめかみに指を当てて、精霊さまが不機嫌そうに唸った。
 一方で、人の子の興味は別の話題へと移っていった。
「あ、あの…… 精霊って恋するんですか?」
 頬を桜色に染めた乙女が尋ねた。
「つがいになってる奴らもいるですが、ワタシは全く興味ねーです」
 ティアリスの受け応えはとてもとても面倒臭そうだった。
 彼女の応えにセレネはどこか安心したように息を吐いた。そして、他の思いついた疑問を次々に口にしていく。
「えっと、精霊界の観光名所ってどんな感じですか?」
「精霊王やワタシのような優秀な精霊が住まう雪華宮(スノークリスタル・パレス)は、陽光や月明かりを乱反射していて綺麗っちゃー綺麗ですが、さっきも言った通り百人しかいねーんで観光も何もあったもんじゃありませんよ」
 眉根を寄せたティアリス。鬱陶しそうだった。
 しかし、セレネはお構いなしに続ける。
「精霊術って凄いよね。他にはどんなのがあるんですか? 攻撃用以外もありますか?」
「ちっ」
 遂には舌打ちが響いた。
「……そうですね。セレネのために実演してやりましょう。感謝しやがるですよ」
 精霊さまは眩い笑みを浮かべていたが、どこか不機嫌そうだった。
 質問魔はきょとんとして呆けた。
「へ? 実演?」
 ティアリスがすぅっとセレネへ迫った。小さく細い腕が伸びて紅の瞳を塞いだ。
 空色の瞳がキラリと煌めいた。
「第三十三精霊術『強制睡眠(フォースド・スリープ)』……」
 ぱたっ。
 人の子がベッドに倒れ込み、直ぐにスゥスゥと寝息を立て始めた。
 異界たる精霊界より出でた力が作用して、セレネの脳に適度な疲労を与えたらしい。その結果、彼女の脳は休息を求めて意識を手放したのだ。
「ふぅ。これでようやく読書に集中できるです」
 満足そうに呟いた女児は瞳を紙上のインクへと向けた。文字の連なりと図絵に集中した。そして、鼻唄を口ずさみながら、愛玩動物が載っている頁を集中的に見はじめた。
「ふむふむ。人界に住まう卑しい動物風情とは言っても、案外可愛らしいではありませんか。このクリクリッとした瞳がクソ愛らしくていやがるですねー」
 精霊さまは小さなおみ足をパタパタさせながら動物たちを満喫していた。
 暴言ばかり吐く小生意気な彼女も、意外と見た目に即した子供らしい一面を持ち合わせているようだ。
「えへへー」
 緩みきった笑顔を浮かべて八十歳児が長い夜を過ごしていた。