四章:闇の先へ
〜ボーイズトーク〜

 少女が八十歳児にお話をせがんでいた隣の部屋では、金銀の髪を湿らせた男性陣が寛いでいた。白色や青色のゆったりとした寝巻に身を包んでいる。それぞれに湯浴みを済ませて、眠りにつく準備は万端であった。ヘリオスは寝ぼけ眼でベッドに腰掛け、ルーヴァンスは一時的に用意された客用の寝床に座っていた。
 ルーヴァンスは、精霊さまから下賜された髪飾りを緩んだ表情で見つめていた。頬を上気させている様がとても気色悪かった。
 そのような彼をヘリオスが瞳を擦りながら横目で見ていた。
「どうかしましたか? ヘリオスくん」
 ルーヴァンスが気持ち悪く髪飾りを眺めまわしつつも、ヘリオスを気遣った。質問をしたがっている生徒を見出すその能力は、腐っても国営塾講師である。
 突然声をかけられたヘリオスは、驚いたように寸の間黙り込み、しかし、直ぐに口を開いた。
「ルーせんせえってさ。何でオレの部屋にいるの?」
 教え子の問いに、師は首をひねった。髪飾りを寝床の脇にゆっくりと置き、黙り込んで思考を巡らした。
 ルーヴァンスがヘリオスの部屋に泊まることになったのは、マルクァスの意向だ。
 貴族さまは、今夜に悪魔の襲撃があったとして力ある者が側にいなければ子供たちが心配だ、と見事に過保護を発症した。その結果、彼は元サタニテイル術士であるルーヴァンスをヘリオスの部屋に、精霊たるティアリスをセレネの部屋に宿泊させることにしたのだった。
 ティアリスとルーヴァンス――精霊と人の子で、セレネとヘリオスとこの家を、そして、人界を守ろうとしているのだ。
 そのことをヘリオスもまた承知しているはずなのだが……
「アントニウス卿に依頼されたとき、ヘリオスくんもその場にいた記憶があるのですが忘れてしまいましたか?」
 首を傾げて尋ねた。
 ルーヴァンスのその様子を瞳に映して、ヘリオスは自分の尋ね方が悪かったことを反省した。
「あっ、そっか。ごめん。質問の仕方間違ったよ。えーと、どう聞けばいいかなぁ……」
 どうやら、現状の再確認がしたいわけではないらしい。
 数十秒、ひょっとすれば数分の間、ヘリオスが考え続けた。そして、ようようぽんっと手を打った。
「ルーせんせえは何で今、オレらを助けようとするの?」
「それほど質問内容が変わっていないように思いますよ」
 苦笑と共に、ルーヴァンスが言った。
 しかし、今度はヘリオスも言い直さない。
「ルーせんせえはさ。今じゃなくて、もっと前から何かが出来たんじゃないの? 何で今なの?」
 ぴくっ。
 ルーヴァンスの肩が微かに跳ねた。ヘリオスの問いは、彼に多少なりとも衝撃を与えた。
 ルーヴァンス=グレイ氏の事情を知っていれば、古代悪魔学講師として、あるいは、元サタニテイル術士として、リストール猟奇悪魔事件解決のために、ルーヴァンスに何かが出来たのではないかと、ヘリオスが疑問を覚えてしかるべきだった。
 そのくせ、ヘリオスにはルーヴァンスがこれまで何かをしていたようには見えなかった。
 彼のその考えはまさに的を射ていた。
「ええ。その通りです。僕には事件当初から出来ることが、間違いなくありました」
 ルーヴァンスの素直な返答に、ヘリオスは面食らった。それから、ばつが悪そうに表情を曇らせた。
「あ、いや。言っとくけど、別に責めてるわけじゃないよ? 何て言うか、ただの疑問?」
 ヘリオスが慌ただしく手を振った。今も必死に言葉を重ねている。
 ルーヴァンスが手の平を突き出し、彼の口から飛び出る乱打をとめた。
「仮に責めているのだとしても構いません。仰る通りですから。僕は何もしませんでした。安穏と無意識に平和ボケしていたわけでなく、危機感を抱きながらも意識的に事件を無視していました」
 そして、一人、二人、三人と人が死に、凄惨な事件が続いた。
「実際、悪魔が関わっているだろうことも、サタニテイル術士が――人が関わっているだろうことも、早い時点で予想していましたよ。確信までしたのは、五人目――エクマン先生のご遺体をこの目で見た時です。勿論、一人目、二人目の時点で行動を開始していれば、もっと早くに確信まで至ったでしょうね」
 しかし、そうはしなかった。
「何で……」
「人界とはそういうものだと、そう理解しているからです」
 人の意思や悪魔の意思や、ひょっとすれば世界自身の意思が、人界にさまざまな喜びと悲しみと、願いと怒りと、希望と絶望を生み出す。人が、悪魔が、そして、世界が望もうと望まなかろうと、そういうものなのだ。
 人の世は人を呪っている。
「十年前、多くの者が争いを望まずに泣き叫ぼうとも、戦争は続きました。例え戦争が終わっても、善良な者も、そうでない者も、あるいは必然的に、あるいは偶発的に、死にました。あるいは事故で、あるいは殺人で、死にました。僕はそういう人の世を見てきました」
 それは、リストールの町だけのことでなく、勿論、ロディール国だけのことでもなく、ひょっとすれば、人界だけのことでもない。
 魔界も精霊界も、神が創った世界は、いずれも壊れているのかもしれない。
「神がそのように世界を創ったのだと、そう理解しているからこそ、僕は、事件の解決になんて、これっぽっちも興味がありませんでした。なるようになるだけだと、そう考えてね。例え、誰がどうなろうと。そして例え、僕自身がどうなろうと」
 何が起ころうともそれが世界だと、彼はそう信じてしまった。
「……ひねくれすぎてない?」
 若者の素直なコメントが響いた。
 くすりと、諦観者が苦笑した。
「ええ。そうですね。けれど、一度信じてしまえば、人はそこから中々抜け出せなくなる。そういうものではありませんか?」
 信じた事こそが事実と成り、信念と成る。
 年若いヘリオスであっても、心当たりはあった。素直に頷く。
 だが、今のルーヴァンスは、彼の言うところの世界に逆らっていた。それはつまり、なるようになる未来ではなく、そうなって欲しい未来を目指していることを意味する。
 このまま何もしないでいれば、人界に魔が蔓延り、恐らく、人は死に、国は亡び、世界すらも荒廃する。それを是とするのがルーヴァンス=グレイだった。
 けれども、彼はここに居る。
「最初のオレの質問、結構いい聞き方してたみたいだね」
 呟いてから、ヘリオスが改めて訊ねた。
「ルーせんせえはなんで、ここにいるの?」
 やはり、ルーヴァンスは考え込んだ。しかし、先ほどの思索とは異なる。
 彼は部屋の壁を――セレネの部屋の方向を見つめて、微笑んだ。
「それはティアが――トリニテイル術が、人を救ったからです」
 精霊が神の力を人界へと引き込み、神の力が人を救う。それ即ち、神の意志が、世界が、人の希いを受け入れた結果だと言えた。
 イルハード神は人界を、人が望まぬ形で創った。
 けれど、必ずしも、そのような望まぬ形のままにするとは限らないのだと、ルーヴァンスは知った。
 神が人を救うこともあるのだと、知った。
「人の声が、心が、そう望むように、この町が在れるというのなら――」
 この国が、この世界が、そう在れるのならば、彼は望むのだろう。
 望む未来を、望む世界を、心のままに望むだろう。
「僕は未来への転換点(ここ)にいたいのです」
 しんとした静けさが部屋を満たした。
 ルーヴァンスとヘリオスがが真剣な表情で見つめ合い、一転、緊張を解き、ようよう笑った。
「あっはは。なんか、思ったより真面目な話になって、オレびっくりしたよ」
「ええ。濃密なボーイズトークです」
 とっくにボーイを卒業した輩が、楽しそうに言葉をこぼした。彼は窓辺に寄ってふと夜空を見上げた。
 闇夜には星々が煌めき、月の雫が落ちている。
 圧倒的な闇に比べて光の質量は明らかに頼り無かった。それでも、微かな光が――希望が、人の世を照らしていた。