四章:闇の先へ
〜永夜の白翼〜

 図鑑の目当ての頁――可愛らしい動物が描かれている頁を見終わったティアリスは満足げに息を吐き、それからしばらくして、袋を開いてロケットペンダントを取り出した。ちょんと指先で触れつつ、空色の瞳をそっと瞑る。
「第四十六精霊術『読解(リーディング)』……」
 ぴかぁ。
 ペンダントが光り輝き、そこから記憶が流れ出した。
 精霊さまの脳に過去が染む。
「……ふん。ありふれた悲劇、というやつですね」
 人界では当たり前に人が死ぬ。或いは偶発的に。或いは人為的に。
 規模が小さければ事故や殺人と、規模が大きければ災害や戦争と、その名を変えて悲劇が姿を見せる。
 それは全く珍しいことではない。
 ゆえに、ティアリスは戦争という名の悲劇に対して特に感情を揺さぶられることもなく、思索にふける。
(トリニテイル術の威力がいまいち出ねーと思ったら、イルハードのクソ神にモロに絶望していやがりましたか…… こいつは厄介ですね。クソ神への信仰心がありまくっててもワタシが鬱陶しいんでマジ勘弁ですが、必要以上に忌避されるとそれはそれで困ります。かといって、イルハードのクソの代わりにワタシがヴァンと信頼関係を築くっつーのも勘弁して欲しいですし…… 術の威力を強化するのがなかなか難しいですね、これは)
 トリニテイル術は、神と精霊と人の子の信頼関係が術の源である。なればこそ、イルハードとティアリスとルーヴァンスはそれぞれを敬い、尊び、愛さなければならない。
 しかし、ティアリスはイルハードやルーヴァンスを寧ろ嫌い、ルーヴァンスもまたイルハードへの敬愛を唾棄すべきものとしている。
 これでは、悪魔への対抗手段であるトリニテイル術が有効打となり得ない。
(まあ、エグリグルの悪魔が顕れなければまだ勝機はありますか…… パドルとかっていうクソ虫は、サタニテイル術士としてあまり優秀ではねーようですし、血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)を完成させなければ――)
 思考に集中していた女児が、ふいに顔を上げた。
 周囲を俯瞰していた光の瞳が闇よりも暗い黒を捉えたのだ。
「っち。雑魚が来やがったようですね、めんどくせー」
 面倒そうに呟いて、精霊さまは窓辺に立った。
「……第二精霊術『天翼(てんよく)』……」
 ばさぁ。

 人々が寝静まり、虫の声も消え去り、天を月と星々が彩った頃合い、夜よりも深い闇が路地裏から這い出した。
 闇はゆったりと大路を行く。
「こんばんは。月が綺麗でいやがりますね、クソ悪魔」
 天上からソプラノの声音が響いた。
 ぴたっ。
 闇が天を仰ぐ。
 白翼の女人が月を背にして浮かんでいた。漆黒の髪が南風に揺れていた。
「見たところ、超下級のクソ悪魔さんでいらっしゃるようですが、言葉を解する必要最低限の脳みそくらいは持ち合わせていやがるようで何よりです」
 ひゅっ。すた。
 地に足をついたティアリスの背からは翼がすっと消えた。
 彼女はその背に流れる黒髪を、右手でふわりとはらい、両の腕を組んで嗤った。
「さて、さっそくですが――滅びやがりなさい」
 当然ながら、魔はその命に従わない。すぐさま闇の力を収束させた。
『……闇の手(ダーク・ハンズ)』
 呟きに伴って黒い腕が幾本も、路地裏の闇より生じた。
 その腕(かいな)は勢いよく精霊へと迫る。しかし、彼女を捕らえることは能わない。
「第二精霊術『天翼』!」
 ばさッ!
 再び、白翼がティアリスの背に生じた。彼女は翼をはためかせ、天上へと駆けあがった。
 闇は尚も追い縋るが、光が再び集結した。
「第十五精霊術『蓬雷電(ほうらいでん)』!」
 白の雷が黒き腕を駆逐した。
 ティアリスは月を背に負い、ピタリと静止した。キョロキョロと方々に視線を送って思索にふける。
(ふん。こいつの他にも数体、そこらにいやがりますね…… けれど、どれも下級もド下級で、顕化術の結果に生じていやがるです。どれもこれも、マジでクソみてーなレベルのやつばっかじゃねーですか……)
 ふぅ、と小さく息をついて、彼女は両の腕をばっと突き出した。
「ハズレのクソザコ悪魔どもに用はねーんですよッ! 第七精霊術『聖霊弾』!!」
 かっ!
 光が闇を照らした。
 東西南北に光の筋が走り、断末魔がアントニウス邸の周りで小さく響いた。
 そして、夜に静けさが戻る。
「……こいつは、本気で責める気がねーですね。小手調べってやつですか。ったく、鬱陶しいったらねーです」
 ぼやくうちにも、新たなる闇の気配が生じた。
「まあ、第一級トリニテイル術士の実力なら、このくらいどうってことねーですが!」
 びゅっ!
 夜天を白い翼が舞い踊る。
 永い夜が始まった。