ルーヴァンス=グレイがリストールの町にやって来たのは、十年前のことになる。
彼はロアー南北戦争で両親と幼い妹を失い、大陸を満たしていた戦という名の魔を憎んだ。その結果、いくつかの偶然と必然を経て、サタニテイル術士として戦場の最前線で戦い、十四歳という若きにおいて多くの悲劇を目にすることとなった。
人は人を殺し、人は人に殺され、時には人を救い、しかし、その先に更なる絶望を見た。
ルーヴァンスは人に疲れ、世に疲れ、全てに疲れていた。
「どーしました?」
「?」
かつての上司たちに勧められるまま向かった先――ロアー大陸南方のリストールの町にある大きな屋敷の中庭で、彼は声をかけられた。
その鈴のように高き声音は、微かながら荒んだ心に安らぎを与えた。
ルーヴァンスはぼうっと遠くを見つめていた視線をキョロキョロと巡らせるも、彼に話しかけてきた某かは見つけられなかった。
(気のせいか……)
特に気にせず、つまらなそうに視線を下げた。何を見るためでもなく、気持ちと共に瞳を下方へと向けた。
しかし、そこにはまさしく、声の主がいた。
小さな小さな生き物がいた。
「……………お前は?」
「ボクはセレネ=アントニウスです。こんにちは。どうぞ、よろしくおねがいします」
ぺこりと、女児が丁寧に頭を下げた。それから、にぱっと太陽のような笑みを浮かべた。
彼女はこの屋敷に住まう四歳児で、屋敷の主人マルクァス=アントニウスの娘だった。
「……………」
セレネに用事など特にはなく、興味すらもないルーヴァンスは、沈黙をもって返答とした。彼女の言葉通りによろしくする気は全くないようだった。
いつまで経っても黙り込んでいるルーヴァンスを瞳に映して、女児が訝る。
「ルーちゃんくん?」
「あ?」
奇妙な呼びかけと共に、セレネが可愛らしく小首を傾げた。
彼女は銀髪の少年について、父母より少なからず情報を得ていた。父からは彼の年が十四であることを。母からは彼が『ルーちゃん』という名であることを。
しかし、母の情報は若干ながら間違っていた。
ルーヴァンスはしかめっ面のままで肩を竦め、セレネの母ミッシェル=アントニウスののほほんとした笑顔を思い浮かべて舌打ちした。人の名前くらい正確に教授して欲しいものだ、と。
「ルーヴァンスだ。ルーヴァンス=グレイ。ルーちゃんくんなんてよく分からん呼び方は止めろ」
「ルーヴァンスくん?」
大分マシになった。
女児は頬を両手で覆い、何度もルーヴァンスの名をくりかえした。
「ルーヴァンスくん。ルーくん。ヴァンスくん。ヴァンくん」
いくつかの候補を経て、彼女はその内のひとつを気に入ったらしい。
ぽんっと手を打って大輪の花を咲かせた。
「ヴァンくん! ヴァンくんはおひまですか?」
ニコニコと微笑んでセレネは、ヴァンくん、ヴァンくんと連呼した。
(ちっ。うっぜーな……)
ルーヴァンスは鬱陶しそうに息をつき、女児のおでこをツンと押した。
ころん。
後ろ向きにでんぐり返ったセレネが、地面にぺたりと座り込んだ。きょとんとした表情を浮かべて、大きくつぶらな瞳を二度、三度とまたたかせた。
そして――
「あはっ。きゃはは!」
きゃっきゃと楽しそうに笑い出した。
「ヴァンくん! ヴァンくん! もっかいおねがいします、もっかい! そーだ! ヘリィもいっしょに――あ、ヘリィっていうのはボクのおとーとでですね、それでね!」
幼き者が懸命に言葉を操る様は、人の心に穏やかな気持ちをもたらした。
それは、戦争を経て荒んでしまったルーヴァンスの心にも、多少なりとも有効だった。女児の一挙手一投足が、彼の亡くなった妹――メイファ=グレイを彷彿とさせたのだろう。
抜本的な救いとまではいかなかった。けれど、少なくとも今を生きる気力を与えてくれた。
ほんの僅かなきっかけが彼には必要だったのだ。
「ったく、うるせーガキだぜ」
ルーヴァンス=グレイは口の端を持ち上げ、小さく笑った。