セレネはティアリスにベッドを譲って、入念に湯浴みを済ませ、試行錯誤しつつ着替え終わり、時間をかけて真剣に身だしなみを整え、すっかり準備万端としてから弟の部屋の前に立った。何度か躊躇して、しかし、ようよう心を決めて一度深呼吸をし、緩く握った右手を扉に二度軽く打ちつけた。
コンコン。
少しの沈黙ののち、部屋の内部から小さな物音が響いてきた。衣擦れの音と足音が近づいてきて、扉がゆっくりと開いた。
がちゃ。
「おや、セレネくんでしたか。おはようございます」
ヘリオスの部屋から顔を出したのは、ホストでなくゲストだった。
弟の寝汚さを熟知しているセレネにとっては、ルーヴァンスが顔を出すことは予想通りであったため特に動揺しない、と思いきや、自宅で早朝に想い人と挨拶を交わすという非日常に少女の胸は高鳴ってしまっていた。
そのため、胸の動悸を抑えきれずに上手く言葉が出てこなかった。
「あ、あの、あの…… お、おはようごじゃいます! ヴァンしぇんしぇい!」
心の臓が張り裂けそうに張り切って血液を運んだ結果、少女の頬は少し赤らんでいた。
しかし、青年は一切頓着せずにごく自然に微笑む。
「ヘリオスくんはまだ眠っていますよ?」
ルーヴァンスが指し示したベッドの上で、双子の弟は気持ちよさそうに寝息を立てていた。
姉はルーヴァンスの常と変らぬ様子に、少し失望しつつも落ち着きを取り戻し、明るく笑って手を振った。
「いえ、別にヘリィに用なんてこれっぽっちもないんで大丈夫です。どうせいつも通り、お昼まで寝ていると思いますし。それよりも、ご一緒に朝ご飯はいかがですか、ヴァン先生。パパとママもいつもこのくらいの時間ですし、もう準備できていますよ」
セレネの言葉からすると、ヘリオスは昼間まで寝ているのが本来あるべき姿らしい。ならば、放置してもよいだろう。
ルーヴァンスはそのように思考してから、扉の外を上下左右と見回した。セレネの部屋に泊まっていたもう一人のゲストが見当たらなかった。
「ティアはどうしました?」
その問いを受けて、セレネはほんの少しだけ不機嫌になった。頬を膨らまして視線を下げた。
しかし、直ぐに視線を上げてニッコリと微笑んだ。きっとルーヴァンスに他意はない。そう判断した。
「すっごく眠かったみたいで、あんまり話す時間もなくボクと入れ替わりに寝ちゃいました。やっぱり子供だから、徹夜は辛いんじゃないでしょうか?」
実年齢は八十歳ていどとのことではあるが、身体の大きさが子供のそれであれば、蓄えられるエネルギーも少ないのだろう。セレネはぼんやりと、そのようなことを考えていた。
一方で、ルーヴァンスはそろそろと足音を立てずに廊下に這い出た。
ぱたん。
扉を静かに閉めて、なおも、抜き足、差し足、忍び足、と廊下を行く。
「ヴァン先生?」
「しっ。セレネくん。ティアが起きてしまったら大変です」
「はあ……」
言っていることはごもっともなのだが、セレネの部屋の扉へと向かう意味は分からない。
「あの、何をなさっているのですか?」
セレネの疑問に対して、ルーヴァンスは振り返り眩い笑みを浮かべた。
「キュートな女児の寝顔を見逃す手はありません。あわよくば目覚めのキスを桜色のほっぺたに――」
バッチーン!
鋭い音がアントニウス邸に響き渡った。
「ヴァン先生のバカ!」
先ほどとは違い、セレネは目に見えて不機嫌になった。顔を真っ赤にしてぷくっと頬を膨らまし、瞳を吊り上げている。
「もう! ご飯、行きますよ!」
「……は、はい。セレネくん」
赤くなった左頬をさすりながら、ルーヴァンスが首を傾げた。何故叩かれたのかさっぱり分からない、といった表情だった。
先を行く少女の背中を見つめ、思案する。
(何を怒っているんだ? 先ほどの僕の行動から考えるに…… ああ、勝手に部屋に入ろうとしたからかな)
彼はその予想が事実だろうという、頓珍漢な結論に達した。そして、頬に真っ赤な紅葉を拵えたままで、にっこりと微笑んだ。
「すみません、セレネくん。次からはひとこと断りますね」
「いやいやいやいや! 断ってもダメですよ!」
未来の犯罪を慌てて止めるセレネ。
ルーヴァンスが寝顔を見るだけで済ますのか、ほっぺチューをするのか、はたまたそれ以上の変態行為に走るのか。それは定かではない。しかし、いずれにしても止めねばならない。彼に想いを寄せる乙女として。
「あれ? 断っても駄目ですか? えーとそれでは、セレネくんにティアを運んでいただいて――」
「駄・目・で・す! ボクの目が黒いうちはぜえったいに駄目っ!」
「そんなご無体な……!」
「こっちの台詞ですうっ!」
類稀なる変態と涙目の乙女の攻防が始まった。
そのような噛み合っているようで噛み合っていない不毛な会話が、朝食の席へ至るまで続いた。