十数年前、ロアー大陸は戦火のただなかにあった。戦争の初期、ロディール国が劣勢に置かれていた。ゆえに、かの国には死がありふれていた。ロディール国北西の小さな農村も例外ではなかった。人は人に侵され、犯され、冒されていった。
とある村はボルネア国の侵攻により、多くを奪われ、多くを失った。
村の一員であるアルバート=エクマンの家は、紅蓮の炎に包まれ、空を赤々と染めていた。
父カルロスも母メアリーも焼け落ちた天井の下敷きになり、炎に皮膚を焼かれ、瀕死の重傷を負っていた。さらには長子たる娘を――アルバートの姉ナージャを、ボルネア軍の兵士に辱められた上で殺されていた。エクマン家は、肉体的にも精神的にも追いつめられていた。
カルロスやメアリーの命の灯火もまた、辛うじて現世にとどまっているに過ぎなかったのだ。
「……………あ……………アル……………」
カルロスの息づかいは非常に苦しげだった。ひゅぅひゅぅと、首に穴が開いていて空気が漏れ出ているような、聞くに耐えない、辛そうな難呼吸であった。
彼の隣に寝そべっている妻の瞳もまた虚ろで、滅びゆく空を見上げていた。呼吸は浅く、双眸に浮かぶ光は消え去ろうとしていた。
彼らはただ疲れていた。悲哀も怨嗟もなく、ただただ疲労と共に在った。
青年が――アルバートが、いっそ不機嫌に見える、感情を抑え込んだ表情で、泣くように笑った。
「なんだい? 父さん」
「…………………………殺してくれ…………………………」
沈黙の背後で炎の爆ぜる音が響いていた。
カルロス=エクマンもメアリー=エクマンも、全身を覆う火傷に加え、骨は所どころ折れて、内臓もまた破裂していた。彼らはほどなくして、最愛の娘ナージャ=エクマンの待つ幽世に旅立つだろう。誰かが手をかけずとも、既に死出の旅路に一歩を踏み出していた。
しかし――
ぐッ!
アルバートが腕に力を込めた。両の手でしっかりと締めた。とても大切なものを生誕の時にギュッと握りしめたのと同じように、彼らの最期を懸命に握った。
父も母も苦しみに顔を歪めていたが、最期には笑っていた。
アルバートもまた笑った。狂ったように哂った。
絶望の満ちる人界を嗤った。
神を恨むでもなく、魔を望むでもなく、人を呪うでもなく、ただひたすらに、声を枯らして叫ぶように笑いつづけた。
楽しかったのか、哀しかったのか、腹立たしかったのか、それとも、嬉しかったのか。感情が分からなかった。心が分からなかった。何も分からなかった。
その時、人も世も、きっと毀れていた。