五章:人の世の罪
〜ダン=モース〜

 ダン=モースは早朝に大聖堂を訪れ、手紙を窓の桟に立てかけておいた。そこを掃除するのは彼女であると熟知していた。手紙には夜中に逢って欲しい旨をしたためてあった。
 朝方の漁を終え、獲れた魚を捌き、販売所に運び込み、漁道具の整備を終え、仕事をすっかり片付けて、彼は早めに眠りについた。漁師仲間と呑みに行くこともなく、賭場に顔を出すでもなく、夜のために床に就いた。
 夜遅くに、あるいは、朝早くに、ダンはとある小路から横にそれた裏路地へと赴いた。そこには先客が居た。彼が呼び出した女性が居た。
「シスター・マリア。来てくれたんだな」
 ダンの呼びかけに応じて、女性が振り返った。
 金の髪が月の光を反射して煌めき、輝き満ちる碧い瞳は闇色の空と海を見つめていた。透き通るような白い肌は夜の帳の下では病的にさえ見えた。女性はそれらの色彩を覆い隠すように、袖や裾の長い黒の衣服に身を包んでいた。彼女の名はマリア。ファミリーネームは無い。只のマリアだ。彼女は大聖堂の前に捨てられていたところを、当時の神父に拾われて育てられた。孤児だった。
 マリアは困ったように眉を下げて嘆息した。
「ダンさん。このような手紙は困りますと何度も申し上げておりますのに……」
 そういった彼女の手に収まっていたのは恋文だった。ダンが大聖堂の窓に差し込んでおいたマリア宛の一葉だった。
 拙い愛の言葉は幾度も重ねられ、もはや何度目になるか知れない。或いは言葉で、或いは文で、神に仕える者へと報われぬ愛の詩が捧げられた。
 イルハードに一生を捧げると誓った者が、その想いに応えることは決して無いというのに。
 びゅぅ。
 潮風に黒い裾がたなびいた。闇夜の中でほんの僅かだけ、足首だけ肌の色が顕わになった。
 平素、足首どころか太ももまでをも見せている女性はいくらでもいる。ダンも常から見慣れている。ゆえに通常であれば、闇夜に浮かんだ肌の白は――足首の露出程度は、取るに足らない有り触れたものであるはずだった。
 しかし、月夜に照らされた聖女の細い足首は、不可思議な程に煽情的であった。
 気が付いた時には、ダンはマリアをうつぶせに押し倒していた。石畳に押し付けて漆黒の衣服をたくし上げた。眩い白を控えめに露出させ、欲に塗れた想いをぶつけた。
 潮騒が耳朶を刺激するなか、純潔が散った。
「……し、シスター」
 刹那の欲望から逃れた男は青い顔で神の使徒へと瞳を向けた。彼の瞳には、月明かりの下で祈りを捧げる憐れな女が映った。
 彼女は、欲望に穢された直後であっても神へと祈りを捧げ、畏れ敬い、愛した。
「……イルハードさま。どうか罪深きこの方をお許しください」
 その信仰は目映く、いっそ、狂気のようにも見えた。
 そして、祈る愚者を見つめる者もまた別の狂気に支配された。それは刹那の狂気であった。しかし、悲劇を生むにはその刹那で充分だった。
 がんッ!
 鈍い音が響き、しなやかな身体が大地に打ち付けられる。そのような物音が夜の静けさの中で何度か響いた。
 がんッ! がんッ! がんッッ!!
 ようよう、石畳が紅で染まった。ゆっくりと、ゆっくりと、緩慢に、緩慢に、鮮やかな液体が大地を染めていった。
 胸の前で両の腕を組み、シスター・マリアはこと切れた。祈るような姿勢で神の身元へと旅立った。
 神を愛すな。俺を愛せ。
 その場に独り残された男の双眸には、ぎらぎらとした妬みが宿っていた。自分勝手な想いがにじみ出ていた。
 彼の歪んだ想いは他人を殺め、彼自身の善良な心を殺め、ついには、人の世に深い闇の予兆を解き放ったが、その時はまだ、一つの悲劇が生れ落ちたに過ぎ無かった。