六章:罪と罰の星
〜サタニテイル術士隊〜

 ロディール国とボルネア国の国境沿いに在る名も無き村々は、或いは誰にも守られずに滅び、或いは何某かの加護を得て日常を過ごしていた。彼らの運命が分かたれたのは、守り人が気まぐれだったためではなかった。ただ単に、物理的な制限を受けていたためだった。
 即ち、村々を護る者はたった独りだったのだ。
 彼は草原や森に潜んで敵を待ち続けた。或る日はただ平穏に過ごし、或る日は複数の部隊を迎撃した。いつも、いつでも、戦いに備えていた。いつだって、ボルネア軍の人間を殺すことを求めていた。父を、母を、妹を殺した者たちに報いを受けさせることを望んだ。
 ざっざっざっ。
 遠くから軍靴が響いてきた。規則的に迫ってくるその音は、もはや耳慣れてしまっていた。
 ボルネア軍歩兵隊の行進だった。
「……来やがったか。ボルネアの糞共め」
 その日も、復讐の結果としての守り人――ルーヴァンス=グレイは独りごちて、背の高い草原に紛れたまま腰から凶刃を取り出した。その刃で戦場に向かうわけではない。彼はその刃を自分自身へと向けた。
 ピッ。
 十三歳の少年はナイフで右手の人差し指を傷つけた。そして、指から滴り落ちる血を左の手の平に押しつけて、手慣れた様子で図形を描いた。紅き六芒星(ヘキサグラム)を描いた。
「……アルマース……」
 ルーヴァンスは左手を前にかざし、悪魔の名を呼んだ。
 しばらくは沈黙が続いた。
 しかし、直ぐに幼い声が呼びかけに応えた。声はルーヴァンスの頭の中にだけ響いた。
『ルーヴァンス。気をつけろ』
 唐突な警告だった。
 しかし、当のルーヴァンスは聞き入れる気が全く無かった。迫って来る隊列へと殺意を向け続けた。
「何だ? 藪から棒に。んなことより、いつも通りに奴らをぶっ殺すぞ」
『……ふぅ。まったく。悪魔の忠告は聞くがよいぞ、ルー馬鹿。ほら、左へ跳べ』
 幼き少女の声が注意を促した。
 ルーヴァンスは何も考えず、素直に左へと跳んだ。短い付き合いながら、頭に響く声――悪魔アルマースの言葉は信頼に値すると識っていた。
 どんっ!
 大きな物音が響いて爆炎が燻り、大地が焼けた。
 どんっ! どんっ! どんっ!
 その後も、少年の周囲へと焔が連続で襲い来た。
 それらの強襲を、ルーヴァンスは何とか避けた。
「なっ! 何だ! おい、アルマース!」
『だから気をつけろと言っただろう? 人間もそこまで馬鹿ではない。国境付近で襲撃が幾度も続けば対策も練る。あのように軍靴を響かせて歩兵隊がやって来たのも罠に違いない。いくら何でも存在を主張しすぎだ。お前が奴らに殺気を向けたところで、別働隊の魔術士どもが気配を察して力を放ったのであろう。お前がもう少し経験を積んでおれば奴らの存在にも気づいたはずだぞ。修練を後回しにして復讐にかまけるからこういうことになるのだ。そもそも――』
 幼き声からは呆れの色が多分に窺えた。姿は見えずとも、肩を竦めて嘆息している様子が容易に想像できた。悪魔はしばし、時と場合を考えずに、くどくどと説教を垂れ続けた。
「……ちぃ。おい、アルマース! んな場合じゃねぇだろ! 行くぞ!」
 ルーヴァンスは舌打ちして、悪魔に喝を入れてから左手を突き出した。襲撃を受ける前に描いていた血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)を中心に、強き力が呼び寄せられた。
「獄魔焔(メギド・フレイム)!」
 魔界の焔が地上を駆け抜けた。
 ぱちぱち。ぱちぱち。
 草花に燃え移った火が燻り、どんどんと燃え移っていった。あっという間に辺りは火の海と化した。
「殺ったか……」
 圧倒的な激しき焔を金の瞳に映したルーヴァンスがほっとひと息ついた。悪魔の力が生み出す紅き触手は、あらゆる者を消し炭と化すに違いないと錯誤した。しかし……
 びゅっ!
 強風が大地を吹き荒らし、紅々とした焔を操った。草原は一層燃え盛り、火の子が空へと舞いあがっていった。
 魔より出でた炎は、生みの親たる魔の者を包み込むように激しく踊った。
『ルーヴァンス! 飛べ!』
「で、魔翼(デヴィル・ウィング)!」
 人の背に漆黒の翼が生じた。黒翼は小さくてどこか心もとなく、人の子の未熟さを現しているかの如くだった。
 背に黒を負った少年はバサリと羽ばたいた。焔の紅で染まる空へと飛び立とうとした。
『次! 全方位障壁!』
 連続で悪魔から人の子へと指示が飛んだ。
 しかし――
 どんッ!
 ふたたび強風が吹き荒んだ。瞳を開いていられないほどの烈風が大地と空を翔け廻った。
 ルーヴァンスは傷や疲労からアルマースの言葉に反応できず、指示通りの防護障壁を生み出せなかった。結果、小さな身体も弱き翼も奔流に耐えられず、襲い来る烈風にそのまま揉まれ、炎に包まれた草原へと堕ちていった。
(くそっ。ここまでか……)
 少年が瞳を閉じて堕ちるに任せた。諦めかけた、その時――
 パシッ。
 少年の小さな身体が大地へと打ち付けられる前に、何某かの腕によって受け止められた。
 そして、その何某かがゆったりと呟いた。
「水魔刃(アクア・スライサー)」
 ひゅっ!
 微かな物音に伴って、一帯から熱気が除かれた。
 ルーヴァンスが瞳を押し開けると、まず目に入ったのは鮮やかな金色(こんじき)だった。さらりとした金の髪が、自由気ままな飛翔に合わせて揺れていた。
 少年は女性に抱かれ、庇護され、天を翔けていた。
 燃え盛っていた草原は背を低く変じ、水気を含んでいた。燃え種(ぐさ)をなくし、かつ、水流に押し流されたらしく、大地は焔の侵食を免れて静けさを取り戻していた。
 すぅ。
 視界が百八十度転換した。
 ルーヴァンスの目の端で赤々とした幾十の弾丸が空を目指して駆けあがっていった。
 空を行く二者の視界は目まぐるしく変わった。突然の支援者の背にもやはり黒き翼が在った。その者の翼はルーヴァンスのそれと比べて大きく立派で、吹き荒れる強風に侵されることもなかった。加えて、ルーヴァンスを含む周囲には不可視の防護壁が張られているらしく、間断なく襲い来る炎弾をあっさりとはじいていた。
『ほぉ。こやつは…… 十二分に見習うがよいぞ、ルーヴァンス』
 アルマースが感嘆してから、年若く未熟で生意気な少年を揶揄した。声には嘲りの色が濃かった。
 ルーヴァンスは頭に響く悪魔の声に対して多少の反感を抱きながらも、支援者の実力には素直に感心していた。
 支援者は方々から迫る弾丸を或いは避け、或いは弾き、そうしながらも、腕に黒き弾丸を生み出した。闇色の球体からは、未熟なルーヴァンスでも分かる程の圧倒的な力を感じた。
「空虚な闇(ヴォイド・ダークネス)」
 一点の黒が大地へと降り注いだ。黒は草原をかき分けて目標へと向かった。
 或いは炎で、或いは水の刃で、繁茂していた草木はその背を低くしていた。そこに辛うじて身を隠していたボルネア軍の魔術士たちへと漆黒の闇が迫った。飢えた獣のような黒が、逃走の間も与えずに襲い掛かった。
 すっ。どさっ。
 静かに、只静かに、大地に肉片が転がった。
 黒き弾丸は、まるで炎が雪を瞬時に融かすように、人体をあっさり消し去って見せた。それぞれ、黒へと触れたところが即座に存在を失った。或る者は頭部を、或る者は頭部以外の部分を、或る者は全身を失い、悲鳴すら上げずに骸と化した。
 漆黒の輪舞(ロンド)がしばしの間つづき、ようよう空を彩っていた炎弾が姿を消した。ボルネア軍の魔術師が全滅したのだ。
 すると、ルーヴァンスを抱いて中空を漂う金色(こんじき)の女性は、右手をすぅと持ち上げ、地平線にて軍靴を響かしているボルネア軍の歩兵隊へとかざした。伴って、闇色の飢えた獣は方向を転換した。
「膨張(エンラージ)」
 ずんっ。
 女性の呟きを受けて黒が肥大化した。大きく大きく成り、空を、大地を、全てを飲み込まんばかりに巨大に変じ、漆黒の獣はあっさりとボルネア軍の歩兵隊を飲み込んだ。
 侵略者たちは迫りくる闇に対するほんの少しの不審感を表したのみで、悲鳴も何も、肉体すらも残さずに、人界から消え去った。
 ぱちん。
 小さな、しかし、鋭い音が響いた。女性が指を鳴らした。その結果、虚ろな闇は、ようやく満足したとばかりに小さく笑んで――そのような印象をルーヴァンスに与え、こちらも消えた。
 あとには静かな草原と、ルーヴァンスと女性と、そして、何時の間に現れたのか、数名の男女のみが残った。
「終わったかな?」
「ええ。司令官どの。対象を救助し、敵は全員殺しましたわ」
 大地から見上げる男性へと向けて、女性がにっこりと微笑んだ。
「ご苦労。流石は『魔を統べる華(ブラッディ・ローズ)』くんだね」
 苦笑と共に男性が女性を賛美した。
 しかし、女性が彼の言葉に喜ぶことはなかった。彼女は、背の黒翼をゆっくりと羽ばたかせて大地へと降り立ち、不機嫌そうに頬を大きく膨らませて見せた。
「その呼び方は可愛くないので嫌いです」
 ぷいっとそっぽを向いて不平を吐露しつつ、女性は――魔を統べる華(ブラッディ・ローズ)と呼ばれた者は、抱いていたルーヴァンス=グレイ少年を大地に下した。
 地に足を付けた二者へ向けて、司令官と呼ばれた男性と他二名が近づいてきた。
 金髪碧眼の男性は、ロディール国の濃紺の軍服の上に薄手の黒いコートを羽織っていた。常に張り付いている微笑がどこか胡散臭かった。
 彼の後ろに控えるのは、ライトブラウンの髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ二十歳前後に見える青年と、長く黒い髪を緩く二つ結びにした、黒い瞳を有する十代半ばから後半くらいに見える少女だった。いずれも男性と同じ軍服に身を包んでいた。
 唯一違うのは右肩に刻まれた白き星形の数で、男性は三つ、青年と少女は共に一つしか刻まれていない。それは彼らの階級の差を現していた。有体に言えば、ロディール軍において男性が上司で青年と少女が部下という立場だった。
 ルーヴァンスが改めて頬を膨らましている女性に瞳を向けると、彼女もやはり濃紺の軍服に身を包んでいた。その右肩には星が二つ刻まれている。具体的な階級名は不明だが、男性よりは下で、青年や少女よりは上の立場にいるらしい。
 そこまで観察を終えて、それでもルーヴァンスは身を硬くして逃げる算段を立てていた。自国ロディールの軍人が相手だとて、自分を助けてくれた者が相手だとて、油断はできないと考えていた。彼はボルネア軍を屠る復讐の旅路の中で、ロディール軍人が村々から過剰な食糧を搾取したり、慰安婦として女性を連れて行ったりする場面を何度も見た。直接剣を振り下ろすことは決してなかったにしても、小さな小さな集落にとって彼らの暴挙は充分すぎる悲劇だった。目の前に居る者たちがそういう手合いではないと何故信じられよう。
 警戒の色が消えない少年を瞳に入れて、男性が苦笑した。
 一方で青年は、いまだに頬を膨らませて無言で不満を主張し続けている女性へ嘲りの笑みを向けた。
「いい年した経産婦が、んな餓鬼くせえことしてっとウゼーぞ。死ねよ」
 淡い茶髪や明るい緑の瞳という、全体的に明るい色合いの見た目に反して、青年の口からは明らかな暴言が飛び出した。性格がすこぶる悪いらしい。なかなかに捉えどころのない見た目と性格のようだった。
 その青年の背後で少女がすっと腕を上げた。何か質問があって手を上げているようにも見えたが、そうではなかった。高く掲げられた腕は、ほどなくして勢いよく振り下ろされた。つまり、青年の頭頂部を握った拳で殴った。
 がんっ。
「いって!」
 鈍い音に続いて、小さな悲鳴が上がった。
 青年は顔をしかめてライトブラウンの頭をさすり、少しの痛みに耐えながら背後を振り返った。
 彼の視線の先では、少女が表情筋を全く動かさずに佇んでいた。喜怒哀楽のいずれを表すこともなく、薄く小さな唇を開いた。
「言い過ぎ。謝るべき」
 端的な言葉だった。それゆえにどこか迫力があった。そして、正当性を確実に含んでいた。
 青年は痛いところを突かれたとでも言うようにぐっと息を呑みながらも、往生際悪く反駁を試みた。
「でもよ、事実じゃね? 謝るとか意味わかん――」
 がんっ!
 此度は、少女の拳が直線軌道を描いて青年の顔面へとめり込んだ。
「謝る、べき」
 少女はなおも言葉少なに主張した。先に振るわれた暴力しかり、いまだ構えられている拳しかり、言外の圧力を多分に秘めていた。
 青年は顔をさすりつつ、数秒のあいだ黙り込んでからスッと手を上げた。降参のポーズを取って折れたのだ。
「へーへー。さーせん」
 おざなりな謝罪だった。
 しかし、いつものことなのだろう、少女はあっさりと身を引いた。相手が一応でも義理を果たした以上、更なる追求を試みる気はないようだ。
 謝意を向けられた本人――ブロンドを輝かせている女性もまた、気にしたそぶりはなかった。
 青年の暴言を契機として始まった騒動はこうして幕を引いた。
「バイザウェイっスけど、指令。こいつが例の奴なんスか?」
 続けて話題に上ったのはルーヴァンスのことだった。女性の不満顔よりもまずそちらの話題を優先すべきという意見も大いにあるが、もしかしたら、あるいは、万が一、全員と初対面であるルーヴァンス少年の緊張をほぐそうとした可能性もゼロではない、かもしれない。しかし勿論のことながら、平素通りのただのじゃれ合いである可能性が一番高い。
 予想を裏付けするように、男性が肩を竦めて苦笑した。ようやく本題に入れるか、とでも言いたげだった。しかし、直ぐに気を取り直したようで青年の瞳を見返してコクリと頷いた。
「ああ。諜報部の報告によれば、名はルーヴァンス=グレイくんだ」
 ビクリと、当のルーヴァンスが身を硬くした。彼の素性など、生まれ育った村が滅びた今となっては知り得ないのではないかと思えたためだった。
 しかし実際は、国が管理する名簿にて所在確認や生死確認がされていた。
 ゆえに、調査に長けた軍部の人間は、各地で目撃された風貌や年齢、所在不明者リスト情報などから統合し、密かにボルネア軍を相手取っている某かはルーヴァンス=グレイ少年その人である、と断定したのだった。
 更には――
「術の威力などからして、契約しているのはバランス型の特一級悪魔で、恐らくはエグリグルの悪魔アルマースだろうとのことだ」
 ビクッ。
 先ほどとは比べものにならないほど、ルーヴァンスの肩が跳ね上がった。
 ルーヴァンス自身のことならば人界に閉じたことゆえ、調査は可能だと割り切れよう。しかし、アルマースは魔界の住人だ。軍の諜報部とはそこまでに情報通なのだろうか。
 ルーヴァンスは訝るように、恐れるように、男性を見つめた。
「そう警戒せずともいい。アルマースは他と比較して友好的な悪魔だと言う。歴史上、いくども人界に干渉している。当然ながら情報も多い。だからこそ、君と約していることも予想できるのだ」
『事実だ。信じてよい』
 悪魔自身の肯定を受け、ルーヴァンスはようやく肩の力を抜いた。それでも、険のある瞳はそのままだった。生まれた村が焼け落ちた日から修羅道を歩んできたのだ。如何なる人物であっても手放しで信用は出来なかった。
『すまないな。どうにも疑い深くてね。可愛げのない小僧だが、よければ仲良くしてやってくれ』
 世話焼きの親御のように、悪魔が軍人たちに声をかけた。幼き印象を受ける高めの声音からすると、兄思いの妹と例える方が適切かもしれない。
 その妹御の言葉を受けた反応は、それぞれに違った。ルーヴァンスは顔を顰めて、女性はニッコリと微笑み、青年は苦笑して、少女は無表情のまま肩を竦めた。
 しかし、三つ星の軍服に身を包んだ残りの一人は一切の反応を示さなかった。
『ん? 無視か?』
 悪魔が訝った。
「あー。指令はおめーの声、聞こえねーんだ。術士じゃねーからな」
「おや? アルマースが私に何か言っているのかな?」
 青年の言葉を裏付けするように、男性がぼけた言葉を吐いた。演技のようには見えなかった。事実、声が聞こえていないのだろう。
「結婚をご所望。指令と少年の」
 少女が端的に極端な誇張を口にした。確かに、一生を共にする約束までしたならば仲の良さも究極に至っているだろう。
「言ってねぇよ!」
 直ぐさま、ルーヴァンスが否定した。
 一方で、軍人たちは落ち着いたものだった。普段通りの軽口に過ぎなかったのだろう。偽りのプロポーズ話に冗談交じりにノってみたり、適当に笑って返したりしていた。
 アルマースもまた小さく含み笑いを漏らしていた。
 心労をためているのはルーヴァンス少年ばかりのようだった。
「……お前ら、結局何なんだ? 何の用なんだよ?」
 ついに、ルーヴァンスの方から歩み寄った。
 男性は苛立たしげな少年を見つめ、ニコリと柔らかく微笑んだ。そして、大きな手の平をすっと差し出した。
 彼の周りでは、女性が、青年が、少女が、或いは笑って、或いは肩を竦めて、或いはただ佇んで、ルーヴァンスを迎えていた。言葉ではなく態度で、それぞれの方法で、少年と悪魔に手を差し伸べていた。
「私たちは、ロディール国軍所属特別編成術士隊――通称サタニテイル術士隊だ。そして、私の名はマルクァス=アントニウス。魔術士隊を含めた術士団に司令を出す立場に在る。ルーヴァンス=グレイくん。私は術士団司令官として君の力が欲しいのだ」
 結婚はできないけれどね、と口にして、マルクァス=アントニウスは声を立てて笑った。
 十年と少し前のある春口のことだった。