六章:罪と罰の星
〜悪魔の誘い〜

 アントニウス邸を飛び出したセレネは街路を歩いていた。
 道を行くのは彼女ばかりで、他には誰もいなかった。このところ発生しているリストール猟奇悪魔事件の影響は元より、昨日に起きた大小の規模の襲撃が町民の外出を控えさせていたのだ。
 気持ちを落としてトボトボと歩いている十四歳の少女もまた事情は同じはずなのだが、父親から聞いた話の衝撃のせいで判断力が鈍ってしまっていた。活気のない町の様子にも頓着せず、悩み深き表情を浮かべてフラフラと歩みを進めていた。
(パパの馬鹿…… 何も言ってくれないんじゃ分かんない。何も分かんないよ。ボクの大好きな人が悪い人だなんて嫌なのに…… あんな風に事実しか言ってくれないなら、ボクは、信じたいのに、信じられない。人を殺すことは、それはとても悪いことだって、頭で考えることしかできないんだもん……)
 父マルクァスが人を殺したと、ひょっとすれば母ミッシェルもまた人を殺したと、そして、師ルーヴァンスが人を殺したと、それが彼女にもたらされた事実であった。けれど、そこに実感などなくて、まったくなくて……
(アリスちゃんの言うとおりだ。ボクは何て頭が悪いんだろう……)
 それはきっと、想像力の欠如なのだ。与えられた事実だけを噛みしめて、ただ噛みしめて、その先へと進むことができない。彼らがそうしなければいけなかった、そうせざるを得なかった事情を、類推することすらできない。
(エクマン先生みたいな事情があったのかな? 何か仕方ない事情があったのかな?)
 提示されなければ信じられない。頭でっかちに考えることしかできない。セレネはそんな自分がとても嫌だった。
 思考を巡らして、しかしその実、きっと何も考えられていなくて、いつの間にか、セレネは大聖堂の前まで来ていた。
 通行人は相変わらず視界に入らなかった。皆、家に閉じこもっているのだろう。町はシンと静まりかえり、恰もこの町にセレネしか居ないかのようであった。
(あれ? もしかして、この辺りまで来ると、アリスちゃんのあの術の範囲外かな……?)
 ふと我に返って、セレネは不安にかられた。精霊さまの大きく円らな光の瞳は、アントニウス邸の周囲を環視するという話だった。現在地はかの邸宅からやや離れてしまっていた。
 しかし、彼女は直ぐにブンブンと頭を振って不安を払拭した。
 ブルタス=ゴムズ警邏隊隊長の調査結果が正しいのであれば、セレネ=アントニウスが襲われることは決してないはずだった。
(大丈夫。だってボクは、人を殺していないもの)
『不満。そして、不安。心の影は願いに転じるものだ』
 びくっ。
 頭の中に響いた甲高い声に、セレネの肩が跳ね上がった。彼女は立ち止まって周囲を見回したが、声の主の姿はなかった。気のせいかと、再び歩み始めると――
『お前の願いは何だ?』
 ぞわぞわ。
 セレネの身体に悪寒が走った。
「だ、誰です!?」
『私は、魔界で燻る木っ端悪魔の一人だ』
(あ、悪魔!?)
 人の子の頭の中は混迷を深めていた。悩みに加えて危険が迫ってきたのだ。混乱せずにいられる方がどうかしている。それゆえに、場には数秒間の沈黙が生まれた。
 その間に悪魔は、人の記憶の深い部分を覗き込んだ。
『……ふむ。そうか。マルクァスの娘か。奴に――父親に不満を持っておるようだな、セレネ。では、殺すか?』
「ば、バカなこと言わないでっ!」
 極端な言葉を耳にして人の子が慌てた。
 対して、悪魔は意外そうに息を吐いた。
『殺さぬか。不満のある相手を屈服させるならば最も手っ取り早いのは暴力、そして、果ては殺害だろうに…… いやはや、変わった人の子だ』
「いやいや! 変わっていないと思いますよ! 至って一般的ですからねっ!」
『ふむ。そうか。まあいい。時にルーヴァンスとも知己にあるようだな。そして、ルーヴァンスにも不満をもっている、と。よし、殺すか』
「ですからぁ!」
 悪魔の口からはやはり極端な言葉が飛び出した。
 セレネが悩ましげに頭を抱えた。
『それも駄目か? まあ、奴を殺すのはなかなか骨が折れるしな。ではそうだな。ルーヴァンスと恋仲になるか?』
「……え?」
 悪魔が提示した突然の方向転換に、セレネの脳は全く追いついていかなかった。殺人の勧めから一転、恋愛の勧めである。混乱しない方がおかしい。
 少女は間の抜けた声をあげて呆け、そのまま、黙り込んでしまった。
『何をぼけっとしている。それもお前の望みの一つだろう? まずはそうだな。恋敵の精霊を殺すとするか?』
「やっぱりそっちの方向になるの!?」
 流石は悪魔だ。さきほどから殺人の予告しかしていない。
『なに。精霊は人ではない。殺しても問題はないだろう?』
「ないってことないと思いますけど…… っていうか、ボクはアリスちゃんのことも大好きだし、その選択肢はあり得ませんから!」
 つい先頃まで強ばっていたセレネの身体は、すっかり緊張を解いていた。悪魔というのはこうもボケている存在なのだろうかと首を捻った。姿が見えないにもかかわらず頭の中には幼さの残る声が響く、という邂逅はとても奇妙であったが、それ以外については、友と冗談を言い合っているかの如き心地になってきていた。
 セレネは相手を悪い人間、いや、悪魔ではないと判断した。ゆえに、思い切ってコミュニケーションを試みることにした。
「時に悪魔さん。つかぬことをお伺いしますが、貴女はこの町の事件に関わっている悪魔さんなのですか?」
 人が悪魔に相対しているという割には、あまりにも丁寧で暢気すぎる尋ね方だった。
 悪魔はしばらく黙り込み、唸った。
『うーむ。肯定も否定もしかねるな。私自身はお前の町に興味がない。しかし、数千年来の悪友に頼まれたもので断れず、こうしてお前に近づいたという訳だ。ゆえに私は、この町の事件において重要な位置には居ないのだ』
 興味がないというのに頼みを聞く姿勢といい、馬鹿正直に質問に答える素直さといい、随分と人が好い、もとい、悪魔が好いことであった。
「その悪友というのはどなたなのですか?」
『私の友の名をお前が聞いても仕方がないと思うが……』
 それはそうかも知れないと、セレネが小さく頷いた。うーんと腕を組んで、何か別の、事件を見事解決へと導くような、有効な質問を模索し始めた。
 その時、頭の中でぽんっと音がした気がした。
『ああ、そうだ』
 先ほどのぽんは、良いことを思いついた、というように悪魔が手を打ったらしい。魔のモノは自発的に情報を提供しようと話し出した。
『奴と組んでいる人間の名ならばお前も馴染みがあるだろう。あいつの名は確か――』
「まったく…… 余計なことをおっしゃる方ですね」
 悪魔の言葉を遮って、人の声がセレネの耳朶へと届いた。聞き覚えのある声だった。
 セレネは声のした方を振り向いた。
「おはようございます、セレネ様。貴女は悪魔と通じる才能がお有りのご様子ですね。どうかご協力の程、よろしくお願いいたします」
 パドル=マイクロトフがそこにいた。彼はニコリと微笑み、丁寧に礼をしてから、少女の顔に手をかざした。
「……ん……」
 セレネの意識は暗く、深く、混濁した。