六章:罪と罰の星
〜襲撃〜

 警邏隊員が手分けして聞き込んだ結果、悪魔に狙われる可能性がある使用人が三名いた。いずれも戦争経験者で、敵国の兵を数名、あるいは数十名、殺したということだった。
 殺人者であり被害者となり得る彼ら三名のみをアントニウス邸に残し、彼ら以外の使用人はリストールの町にある貴族の家々に分散して派遣することとなった。
 そして、マルクァス、ミッシェル、使用人三名、そして、ルーヴァンスにそれぞれ数名ずつの警備がつき、物々しい朝の時間を過ごした。平生とは違う雰囲気に緊張を強いられ、時間がゆっくりと過ぎていった。邸宅を飛び出したセレネが戻ることもなく、今、昼時を迎えようとしていた。
「ヘリオスくん。そろそろお昼ご飯だそうですよ。起きてはどうですか?」
 ルーヴァンスが、ベッドに横たわるヘリオスを揺り動かしながら言った。
 当のヘリオスは、すやすやと気持ちよさそうに布団に潜り込んでいた。肌触りのいいシーツに包まれ、柔らかく大きな枕に顔をうずめ、目を覚まそうという気概を全く見せなかった。口をもごもごと動かして、言葉らしきものをけだるげに発した。
「うにゃ。あとで食べるよぉ……」
「あとにしたら、もう昼食でなく、おやつとか、夕食とか、別物になりますよ」
 論点はそこではないと思われた。
「じゃあ、夕食でぇ」
「何時間眠るつもりですか」
 ルーヴァンスが苦笑しつつ呟いた。マルクァスや使用人に頼まれてきたとはいえ、絶対に起こす必要があるのかどうか、判断がつきかねた。アントニウス家の皆々さまからは、まあ起きないだろうけれどね、という裏の言葉を十二分に感じ取れていたゆえ、気持ちよさそうに夢の世界を駆け回っているだろう目の前の少年を無理に起こすことはどうにも憚られた。
(……まあ、いいか)
 がしゃあんッ!
 グレイ氏がすんなり諦めたその時、鋭い音が響き渡った。
「うわっ! な、何? ちょ、ルーせんせえ、何? 何したの?」
 流石の寝坊少年であっても、明かな非常事態とあっては平和ボケしていられなかった。未だ耳に残る破壊音の原因を求めて視線を巡らし、パッと明瞭な答えを得られないと分かるや、ベッド脇に佇むルーヴァンスへと疑問を呈した。
「いえ、僕は何も…… 今のは――」
 破壊の足音は彼らの部屋の隣――セレネの部屋から聞こえてきた。
 セレネは未だ帰ってきていないゆえ、そこに居るのは女児のみであった。幼い外見の精霊さま――ティアリスが眠っているはずだった。
「ティア!」
「ルーせんせえ!?」
 ルーヴァンスが勢いよく部屋を飛び出していった。
 彼を追いかけて、パジャマ姿のヘリオスもまた寝癖をたずさえたまま駆け出した。
 セレネの部屋の前には飛び出していったルーヴァンスが、騒ぎを聞きつけた警邏隊の者が、それぞれに佇んでいた。彼らの顔は一様に、驚愕に満ちていた。
 彼らの表情に喜びなどの正の感情が浮かんでいるはずがないのは、部屋の内から破壊音が響いてきたという現状を鑑みるに、当然だった。しかし、そのことを差し引いても、彼らの表情からは平生に無い緊張感が漂っていた。
 ヘリオスがルーヴァンスの隣へと向かいつつ、眉を潜めて疑問を呈した。
「ルーせんせえ。何があったの?」
「その声はヘリィね。寝起きの声。また、昼まで眠っていたのね」
 落ち着きはらった声が聞こえてきた。ヘリオスの姉――セレネの声だった。
 姉の部屋から姉の声が聞こえたとして、全く不思議はない。それにもかかわらず、ヘリオスの視線の先では、ルーヴァンスや警邏隊員たちが相変わらず驚きに支配されたまま目をみはっていた。
 かつ。かつ。
 少年はゆっくりと、恐々と、廊下を歩んで、件の扉の前まで至った。
 視界に混沌が入り込んできた。
 ヘリオスの紅き瞳は次のようなモノを捉えた。
 或いは、窓が壊れてぐちゃぐちゃになってしまった姉の部屋を。
 或いは、窓に開いた穴から吹き込む風に揺られているセレネの黄金色の柔らかな髪を。
 或いは、ピッと真っ直ぐに伸びた姉の背にある筈の無い黒き翼を。
「……え?」
 乾いた一語のみを辛うじて絞り出し、弟が頭を真っ白にして佇んでいた。土気色の顔には、大きく大きく見開かれた紅だけが目立っていた。
 一方で、姉はニコニコと機嫌良さそうに笑っていた。紅眼を細めて、口元を笑みの形に開いて、嬉しそうに、頑是無い幼子のように、破顔していた。
 微笑む少女は、バサリと黒翼を羽ばたかせて、それから小さくしなやかな白魚のような右手を振り上げた。白き手にはようよう黒き光が集っていった。
「待っていてくださいね、ヴァン先生。今、アリスちゃんを殺しますので」
 満面の笑みを携えたまま、少女はそう宣言して腕を振り下ろした。伴って、黒き力が解放された。
 ぐしゃッ!
 絶望の音が部屋に満ちた。