六章:罪と罰の星
〜空ろな闇〜

 ロアー大陸は混迷を深めていた。空が死に、森が死に、村が死に、人が死んだ。戦火が全てを飲み込んだ。
 ボルネア軍が侵攻し、村々を侵略した。
 ロディール軍もまた、物資を求めて、士気の向上を目的として、村々から食糧や女を奪った。
 誰が敵で誰が味方なのか。誰にも分からなくなっていた。
 どんッ!
 とある村のとある家で窓が破られた。ロディール軍の歩兵が手近な物を乱暴に投げつけたためだった。
「オレらはお前らのために、お国のために戦っているんだッ! それを、食い物も酒も女も出さねぇっつーのはどういう了見だッ!」
「い、いえ…… 食糧とお酒は献上させていただきます。しかし、どうか村の女共を連れて行くのだけはご勘弁を……」
 人の三大欲求として、食欲、睡眠欲、性欲があげられる。なるほど、彼らが食糧を、そして、女性を求めるのも道理だった。男所帯の彼らが欲を満たすためには是非とも必要な存在だった。
 しかし、人はそのような欲望を満たすためだけに存在しているわけではない。誰にだって人格があり、矜持があり、自由がある。殊に、村の大切な一員が連れ去られようとしているのならば、抵抗をするのもまた道理だった。
 がんッ!
 別の兵士が壁に長剣を叩きつけた。木片が飛び散り、家の者の身体を浅く傷つけた。
「ひぃ!」
 非日常を知らずに日々を生きてきた者にとっては、その程度の暴力ですら絶大な脅威になり得た。家の主人であり、この村の長である老人は腰を抜かして床にへたり込んだ。
「お祖父さま!」
 家の奥へと続く扉の陰から少女が飛び出してきた。年の頃ならば十七、八。金の髪と紅き瞳が目を惹く、大層美しい娘だった。娘は紅き双眸に険を宿して闖入者たちを睨み付けた。
 兵士たちの中央に佇んでいた男が、駐屯している部隊の長が下卑た笑みを浮かべて口を開いた。
「なるほど、お美しい。噂には聞き及んでおったのだ。煌めく金の髪。夕焼けを思わせる瞳。透き通るような白き肌。一部隊を率いる私に相応しい美女がいる、とね。お前は特別扱いをしてやる。私専属の女にしてやる。光栄に思うがいい」
「……ッ」
 部隊長と彼の取り巻き数十名が薄汚い笑みを浮かべるなか、数名は俯いて歯がみしていた。
 こんなことが正しいわけがない。国を守るために民を苦しめるなど、イルハード神の僕たる人のすることではない。
 ロディール国の国教であるイルハード正教会の信徒たちは、目の前の光景に、そして、これまで他の村や町で目にした悲劇に絶望していた。
 しかし、彼らには何も出来なかった。一人が正しきことを声高に主張したところで何になろう。ただの雑音として切り捨てられ、土に帰るだけだ。いくつかの村や町が多少の悲劇に襲われ、その結果、部隊の士気が高まって、ボルネア軍との戦が早期に片付くのならば、きっとそれは国のためなのだと、人のためなのだと、イルハードの子たちは無理やりにでも納得せざるを得なかった。
 悲劇を喜びはしない。けれど、止められもしない。
「貴方の慰み者になるなど…… 豚に娶られた方がまだマシですわ」
『!』
 鈴のような声音が紡いだ言葉は、鋭く人々の間を駆け抜けた。
 高らかな音色を発した少女は、人々の注目のただ中に在って雄々しく立ち、愚者を嘲り、弱者を愛惜し、静かに静かに微笑んでいた。
 静かな時がしばし流れた。
 しかし直ぐに雑音が、いっそ神聖とも取れた空間に、乱暴な物音が闖入した。
 神でも魔でも無き者――人間が、全てを支配しようとした。愚かにも、そう出来ると錯誤した。
「跪き、靴を嘗め、謝罪せよ。さすれば未だ許してやる。ここで豚以下の肉片と成り果てること無く、私の性奴隷として有意義な一生を送らせてやる」
 部隊長どのの足元には木片が散らばっていた。彼の腕に握られた大剣が床を砕いたのだ。その威力は身に受けずとも容易に想像できた。
 けれど、少女は怖れも畏れもしなかった。感受性に乏しいのか、知恵が遅れているのか、相変わらず只微笑んでいた。
「ご免被ります。糞豚野郎。いえ、豚に失礼ですね。言い直します。糞人間野ろ――」
 ひゅッ!
 勢いよく大剣が振り上げられた。
 少女の命は残りコンマ数秒であった。一瞬ののちには、無残な骸を床板に曝している筈だった。
「う」
 ざしゅッ!
 少女の暴言の最後のひと文字と同時に、血煙が天井高く上がった。床にゴトリと腕と大剣が転がった。
 愚者が叫んだ。
 少女は初めて感情を動かし、瞠目した。
「き、貴様ぁ! 地方貴族の分際で――」
 ぶしゅうッ!
 最期の言葉を言い切ること無く、部隊長――ロディール国上流貴族は、胴体と首を分断されて絶命した。
 刃を振るった地方貴族の一人で、イルハード正教会の敬虔な信徒たる、マルクァス=アントニウスは、人の道を外れた悪魔のような男を屠っても構えを解かなかった。少女と村長を背に隠し、身の丈ほどの剣で彼らと自分自身を守ろうとする。
 しかし、その守護は恐ろしく儚かった。一人の兵士と老人と村娘と、たった三人で何が出来るか。
 答えは『何も出来ない』だ。
 部隊長だけが腐敗しているのならばマルクァスの行動はきっと正しかった。しかし、そうでは無い。部隊は全体が腐敗していた。ようよう皆の瞳が妖しい光を宿した。
 かちゃ。
 方々で兵士たちが剣を抜いた。
 剣を抜かぬ者は目を逸らした。
 終わりが近づいていた。
 マルクァスはせめて最期に人を守ろうと、神を愛そうと、正しく在ろうと、剣を構えた。
 雄々しく立つ彼の目の前で――人が闇に呑み尽くされた。
「空虚な闇(ヴォイド・ダークネス)」
 少女の呟きが肉も血も消し去った。
 神の名の元に大罪を為した人の子の目前で、魔を抱く者が残虐の限りを尽くした。
「……イルハードさまのご加護……か……?」
 そう呟きつつも、マルクァスは少女に神性など見いだしていなかった。寧ろ、悪魔のもたらす闇こそを見いだした。そしてそれは正しかった。
「イルハードなど信じるに値しません。悪魔こそが人に力を与えてくれるのです」
 祖父を助け起こしながら、少女が言った。
 そして彼女は、マルクァスにもまた手を差し伸べた。
「けれど、貴方の神を信じる心ならば信じてもいいでしょう。さあ、共に愚かな人界を正しましょう」