六章:罪と罰の星
〜愚にもつかぬ希望〜

 魔に染まったセレネが自室を襲撃したのと同時期に、アントニウス家の広間をパドル神父が来襲した。彼は黒き翼をはためかせ、闇色の光弾で壁を壊し、真っ直ぐに目標へと向かってきた。そして、その大胆さとは裏腹に、丁寧に頭を下げた。
「ご機嫌よう、アントニウス卿」
 数名分の昼食が並んだ長いテーブルを挟んで、人と悪魔が対峙した。マルクァスを守るように警邏隊が剣を構えて前面に出ていた。彼らに守られたマルクァスの更に後ろでは、妻ミッシェルと、アントニウス家の使用人数名が身を寄せ合っていた。
「パドル神父…… 本当に貴方が……?」
「その様子、お気づきでしたか。例の精霊ですか?」
 神父が問いに問いで返した。彼の様子は、明確な返答をしていなくとも、信徒の苦しげな問いにイエスと口にしたも同然だった。
 平生から壊れかけている信仰という名の価値観が脆くも崩れ去った。マルクァスは目の前の耐え難い光景に眉を潜め、震える唇で言葉を紡いだ。
「いいや。ルーヴァンス君だ」
「ああ、グレイさんでしたか。以前から、私に対する彼の態度が妙だったので気にしてはいたのですが、彼はロアー南北戦争で活躍したサタニテイル術士だったそうで…… 流石に聡いですね。悪魔の間では噂の人間のようですよ。人でありながら『魔の上に立つモノ(ドミナトゥル)』という二つ名を賜ったとか」
 随分と大仰な二つ名だった。しかし今、そのようなことはどうでもよかった。
 広間には、マルクァスのみならず、狙われるだろう者たちが集っていた。当然、彼らの警護をする者も集っていた。合計で十五名は居た。
 しかし、パドルの襲撃を受けて、警邏隊は直ぐに防護行動へと移り、これといって活躍することもなく、あえなく地に伏してしまっていた。床に伏す者や窓の桟に身を委ねる者など、それぞれ微かに痙攣しながら小さく呻いていた。
 結果、その場に二本の足で立っている警邏隊員は、もはやたったの五名となってしまっていた。
「なぜ、イルハード神に仕える貴方が、悪魔の手を借りる!?」
「ああ、卿。貴方とセレネ様は、とても熱心な信者でしたね。申し訳ございません。私は正直なところ、貴方たちを心の中で嗤っていましたよ。イルハードなど、何もしない愚者でしかありません。その点、悪魔は私の願いに――人の希いに応えてくれます」
 かつて神を信じた男は、その信仰の全てを捨ててしまったようだった。
 マルクァスは歯がみした。神父の言葉は間違っていない。神への祈りが届かず、悪魔への願いが聞き入れられる瞬間を、地方貴族アントニウス家の当主は幾度も目にしてきた。
「人は光――イルハード神と歩むがゆえ、絶望に囚われる。彼が力を分け与えぬがゆえ、私たちは悪しき力に抗えない。守りたいものを守れない」
 人には多くの災厄が訪れる。時には悪魔の手により、時には自然の手により、そして時には、人の手により……
 しかし、人はどうしようもなく無力だ。望もうとも無力ゆえに抗えず、死ぬしかない。守れずに、殺されるしかない。
 そして、人が無力を呪ったとき、彼に力を与える者は――神は、いない。
「私は人の罪が許せず、人が許せず、マリアの死が許せず、マリアを守れなかった私自身が許せず、そして、彼の罪を、マリアを殺した彼の全てを、強く強く強く、憎んでしまいました」
「マリア? 先日亡くなったシスターか。そうか。それであの漁師を――」
 がんッ!
 独白した警邏隊員の身体が横向きに吹き飛ぶ。巻き込まれて、もう一人もまた壁を突き破って外へ落ちていった。
 パドルはそれを、腕のひとふりで実現した。
 残る護りは三名。
「その通りです。私が、私自身が、彼女に無残な仕打ちをしたあの男を殺した」
「なぜ――」
「なぜだと!?」
 ぶん!
 パドルの腕が再び振るわれ、不可視の力が残りの護りを吹き飛ばした。全員、もはや呻くことしか出来なかった。
 場に残されたのは、被害者となるべき罪深き人の子のみとなった。
「逆に聞かせろ! なぜ! なぜ許せると言うのだ! いったいどうしたら、憎むべき人の罪を、人を許せると!」
 激高する彼は、まさしく悪魔の如くであり、それゆえに、とても人らしかった。
 マルクァスは悲しそうに、息をついた。そして、言の葉をつむぐ。
 彼の神は、人と、人の罪を許すことを説いた。それは人の創作なのかもしれない。しかし、マルクァスも、かつてはパドルも、その創作を信じた。人の罪は許されるべきだと信じた。
 けれど、神を信じた人は今、罪と人を憎む道を邁進していた。
「……その答えは、私も、そして、誰もが、一生を掛けて求めることであろう。なぁ、神父よ」
 彼は、どんな絶望の闇を目にしても、その身で悪意や暴力を受けても、馬鹿げた希望の作り話を信じ続けたかった。どうしようもなく愚かだった。