六章:罪と罰の星
〜光と闇の対峙〜

 ベッドが弾けて、セレネの部屋を木片が飛び交った。皆の視界が塞がった。
 ルーヴァンスは腕で顔を庇いながら、天蓋のみとなってしまったベッドだった物の方へと視線を向けようとした。しかし、セレネの生み出した暴風がそうすることを許さなかった。
 そこで寝息を立てていたであろう精霊さまがどうなってしまったのかが気がかりだった。
「――ティア!」
 名を叫んだ。
 そうすることで現状が変わることは無いけれど、それでも声を上げずにはいられなかった。絶望を退けたいと願って声の限りに叫んだ。人は絶望の中でいつもそう在った。いつだって、絶望は絶望のままだった。人界はいつだってそうだった。
 けれど、人界にとっては希有なことに、この時は絶望が希望に転換した。
「うるせーですよ、ヴァン」
 迷惑そうな鈴の音色のような声音が、ルーヴァンスの直ぐ近くで聞こえた。
 いつの間にやら、ティアリスがルーヴァンスの隣に佇んでいた。つい先ごろまで眠っていたのだろう。寝ぼけ眼をしきりにこすって、小さくあくびなどしていた。
「ティア!」
 ほっとひと息つきつつ、ルーヴァンスが再び精霊さまの名を口にした。希望を確認するように呼んだ。
 ティアリスはそんな人の子を鬱陶しそうに一瞥し、舌打ちした。
「クソ悪魔どもの強めな気配が二つも近づいてきやがれば嫌でも目が覚めるですよ。ったく、忌々しいですね」
 そう呟いて、彼女は部屋の中で佇む黒翼を有した少女に瞳を向けた。そして、嘲笑った。
「はっ。セレネ。てめーはサタニテイル術士としても中途半端みてーですね。欲に支配されちまって、クソみてーな本能しか残ってねーじゃねーですか」
「アリスちゃんが死ねば…… そうすれば…… どうせアリスちゃんは――精霊は死んだって…… 生き返るんだから……」
 ティアリスの言葉を意に介さず、セレネが笑顔を浮かべたままで無機質に呟き続けた。
 彼女の様子を瞳に映して、双子の弟が顔色を青くして後ろに一歩下がった。
「……ルーせんせえ。あの、うちの姉、ここまで壊れてたっけ? せんせえが絡むと普段からアレではあるけど」
「いえ。セレネくん自身が心の底からティアの死を望んでいるとは限りませんよ。彼女は悪魔に主導権を握られる形で同化術を為したのでしょう。すると、人は欲に塗れてしまう。目的のために望まざる手段を採ってしまう」
 生徒を庇ってから、ルーヴァンスは一歩進み出た。
「やめなさい、セレネくん。ティアを――女児を殺すなど、とんでもないことですよ! 女児は人界の――いえ、四界の至宝です!」
「この期に及んでルーせんせえのブレなさときたら……」
 ルーヴァンストヘリオスが平生の通りに、少しばかり巫山戯ている一方で、セレネ=アントニウスの瞳には妖しい光が宿った。恐らくはティアリスを庇ったのが気に障ったのだろう、キッとルーヴァンスを睨み付けた。
 彼女の紅き視線には力が宿っていた。魔より出でた狂風が吹き荒れた。
「第一精霊術『煌々壁(こうこうへき)』!」
 精霊さまの力強い言葉に伴って光の防壁が生じ、ティアリスとルーヴァンス、ヘリオスを覆った。
 しかしながら、警邏隊員たちは全く守られなかった。彼らは魔風を全身に受けて、勢いよく吹き飛んだ。窓を破って、地上へと落ちていった。
 名前も知らない人間を助けるほど、精霊さまは慈悲深くないらしい。
 ヘリオスが窓の外に目をやり、哀れな隊員たちの様子を確認した。大地にうずくまって呻いている様は痛々しかったが、最悪の事態には陥っていないようだった。彼はホッとひと息ついて、視線をセレネへと戻した。
「ヴァン先生、どいて下さい! じゃないと、アリスちゃんを殺せません!」
 相変わらず、双子の姉は物騒なことをのたまっていた。
 ルーヴァンスが庇うようにティアリスの前に出た。
「セレネく――おわっ!」
 ビシッ!
 守護を買って出た者の左脚に対し、ティアリスが細いおみ足に不似合いな力強いローキックをかました。鋭い打撃音が瓦礫だらけの廊下に木霊した。
 ティアリスはうずくまるルーヴァンスを睥睨し、それから、黒翼の少女を嘲った。
「はっ! なめんなです、セレネ。ヴァンがいようといまいと、てめーなんかに殺されるワタシじゃねーんですよ!」
「おぉ……! ティアの細くて可愛い小さな小さなあんよが僕の弁慶の泣き所をっ! い、痛きもちいい……!」
「うっせーです、この変態! 永眠しなさい!」
 げしッ!
 廊下に転がって悶絶する変態を、精霊さまが強く強く踏みつけた。そして、ぐりぐりと力を込めて床に押しつけ、蔑んだ瞳でねめつけた。
 そのように冷たい視線を浴びせかけつつも、彼女は潜めた声で情報を人の子に下賜した。
「……ヴァン。他の悪魔も来ていやがるです。恐らく、パドルとかいうクソ虫と一緒にあのオッサンのところへ」
 その言葉に起因して、多少の余裕が見えたルーヴァンスからふざけた様子が消えた。
「てめーはワタシから離れてもある程度の力を使えやがるよーですから、とっととあのうっぜー偉ぶったクソ虫じじいのところへ行けです。ワタシが行くまで、時間稼ぎしてろですよ」
 彼女の言葉は暴言に塗れていたが、要はマルクァスを助けに行けと言っていた。ティアリスが悪魔の力を得たセレネを引き受け、ルーヴァンスにはパドルの相手を任せようとしていた。
「し、しかし……」
「なめんなっつってるです。セレネなんかワタシの華麗な精霊術だけでぶっとばせるですよ。きっめーてめーの力なんて、いらねーんです」
 実のところ、彼女の言葉は嘘で塗り固められていた。昨日の戦いですら、彼女は人の力を借り、トリニテイル術の力を欲した。そういった事実は、彼女自身の力――精霊術だけではどうにもできなかったことの証左であった。
 今のセレネはサタニテイル術の同化術を行使しており、魔化術を施されていた昨日の者以上の力が備わっていた。つまり、ティアリスひとりだけでは、当然ながら勝機がなかった。
 ティアリスもそのことを承知しているはずだが、それでも、暴言を吐き続けた。人の子を遠ざけ、悪魔の奸計を破れる可能性の高い道筋を進もうとしていた。第一級トリニテイル術士としての誇りがそうさせるのだろう。
 ルーヴァンスはその気持ちを汲み取り、ついに駆け出した。
「ティア! セレネくんとヘリオスくんを頼みます!」
「余計なことを言ってねーで、とっとと昨日ご飯を食べた部屋に行けです! クソ悪魔はそこにいやがるはずです!」
 忠告をしたあと、精霊さまは不機嫌そうに舌打ちをした。
「いくらキモくてクソうっぜーとはいっても、今のとこまともな相棒はてめーしかいねーんです! 死んだら殺すですからね、ヴァン!」
「はい!」
 珍しく女児の言葉が、少なからずの優しさを含んでいたためだろう。変態の笑顔が輝いた。そして彼は、セレネに対して少しばかり心配そうな視線を送ってから、勢いよく走り去った。
 その様を見送った精霊さまは、やはり不機嫌そうに首を振った。
「ったく、余計な時間をくったです。あっちのクソ虫どもが手遅れになっていやがったら、ヴァンを百回くれー殺すですかね」
「えっと…… 何があってもルーせんせえは殺される感じ?」
 思わず、ヘリオスが呟いた。
 精霊さまの瞳が細く細く絞られた。
「うっせーですよ、ガキ。ひたすら殴って半殺して、三十秒に一回海に沈めて、日当たりのいいところに磔にして乾くまでのあいだ、暇つぶしに聖霊弾の試し打ちの的にしてやりましょうか?」
「何そのフルセット?! ちょっとコメントしただけでそんなことされちゃうの?!」
 ごもっともな不満だった。ルーヴァンスの相手でストレスを抱えているにしても、あまりに過剰な八つ当たりであると言えた。
 改めて精霊さまの傍若無人ぶりを目の当たりにして、ヘリオスは寒気を覚えてぶるっと小さく震えた。女児が相手ならば何でも問題無しのルーヴァンスや、比較的ティアリスからの反応が柔らかいセレネと比べ、ヘリオスは耐性もなければ遠慮されることもないのだ。今後どのくらい付き合っていくことになるのか分からないが、少しばかり不安を覚えた。
「んなことより……」
 ティアリスは人の子の心配など一切気にせずに、舌打ちをしつつ鋭い視線を双子の弟から姉へと遷移させた。
「くすくす。やった! ヴァン先生が行っちゃったのは残念ですけど、これで遠慮なく、アリスちゃんを殺せますね。巻き添えで殺しちゃったらごめんね、ヘリィ」
 セレネには特別憎しみが満ちているわけでもなく、逆に、とても機嫌が良さそうであった。そしてだからこそ、恐ろしさが際立っていた。
「……セリィ」
「手伝えですよ、ガキ」
 呟いて、ティアリスが指先で、ほんの少しだけヘリオスに触れた。
「神刀、プラス、神楯」
 ヴン。
 精霊さまの言葉にともなって、人の子の手に光の刃と楯が生まれた。
「これは、セリィやルーせんせえが昨日使ってた……」
「セレネんとこの血筋なのか、一応、てめーも術士の素質がありやがるです。不本意ですが、ワタシが協力してやるですから……」
 そこで、ティアリスはいっそ気味が悪いほどに、機嫌良く笑った。
「さあ! ガキなら遠慮なく死んでくれて構わねーんで、神風の如く特攻しろです!」
 びっ。
 ティアリスが勢いよくセレネを指さした。
 しかし、当然ながらヘリオスは飛び出さず、その場にステイした。神風に転じることを、是が非でも拒否した。
「いやまあ、セリィを元に戻したいし、事件も解決したいし、もちろん手伝えることは手伝うんだけどさ。できればオレも死なずに済ましたい」
「ちっ」
 精霊さまが力強く舌打ちした。心の底から出でた、本気の舌打ちだった。