七章:降臨せし紅闇
〜大聖堂へ〜

 リストールの町が誇る大聖堂を中心に置き、紅き光が縦横無尽に駆け抜けていた。
 南から北東へ、そのまま北西へと向かい、まずは逆三角形が描かれた。続けて、北、南東、南西と紅が走り、正三角形が描き出された。それら二つの三角形から、紅き六芒星が完成した。
 町を、大地を、海上を、そして、天上を紅が染め抜いた。
 強き力が人界に満ちた。
 ひゅうっ!
 その発光のなか、風を切って翔る者がいた。その者はキッと先を睨み付けて、アントニウス邸の窓ガラスへと迷い無く突っ込んでいった。
 がしゃあんッ!
「第十精霊術『聖打』、蹴りバージョンっ!」
 がんっ!
 ルーヴァンス=グレイの顔面にティアリスの小さなおみ足がめり込んだ。
「ぶふっ!」
 華麗な跳び蹴りののち、精霊さまがしゅったと上手に着地した。
 一方で、人の子は床に転がった。
「……あ、あの、なぜ?」
「何をむざむざ殺されちまいやがっているのですか! いくらトリニテイル術でも、信頼関係皆無のワタシとてめーじゃ『エグリグル』の悪魔の相手は分が――」
 眼光するどく怒鳴りつけた女児は、そこで口を噤んだ。
 床に散乱する肉片を瞳に映し、無表情で頷いた。
「こいつが、パドルっつークソ虫ですか?」
「……はい」
「ちっ。そういうことでいやがるですか。これだからクソ虫はうっぜーんですよ、まったく……」
 自らを殺して血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)を完成させるなどという愚かな選択肢を、どうやら精霊さまも想定していなかったようだった。首を左右に振り、うんざりとした様子で呟いた。
 しかし、直ぐに嘲るように嗤った。
「まあ、クソ虫が死んじまったなら魔化術か顕化術ですね。それならなんとかイケルですか……」
 悪魔の力を人界で引き出すとき、単純に力の大小で考えるならば、同化術、魔化術、顕化術の順で弱くなる。今回、サタニテイル術士たるパドル=マイクロトフは死亡している。つまり、術士と悪魔が同化する術は使用し得ない。
 なれば、次に彼らが採るべき道は、より強い力を得られる魔化術だと予想できた。あとは、どこの誰に『エグリグル』の悪魔の力が注ぎ込まれるのか、という一点だけが疑問だった。
 ざわざわ。
 にわかに、外が騒がしくなった。
 紅い光がリストールの町を彩り、空を染めていた。人々は窓から天を仰ぎ、六つの頂点を基礎においた、赤々とした魔の図形に心を奪われた。
 紅は最後に、六芒星を囲むように円を描きはじめた。緩慢に囲いが出来ていった。
「……サタニテイル術士が死んでやがるっつーのに、妙に手際がいいですね」
 人々と同様に、精霊さまが天に視線を送りつつ、呟いた。眉を潜めた彼女は、先ほど破った窓枠にひょいっと飛び乗った。
「ヴァン! 行くですよ!」
「行くとは、何処に?」
 天上の紅と、床の上の紅に気を取られていたルーヴァンスが、尋ねた。
「寝ボケてんじゃねーですよ! 真ん中のバカでけー建物です!」
 血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)の力は全て、その中心に集っていた。力は世と世を繋ぐ門となり、力に見合うだけの魔が人界へと喚び込まれ始めた。
 リストールの町全体で描かれた六芒星は、町の中央に聳え立つ大聖堂へとその力を集めるに違いなかった。
 かつて魔と共に在った者は即座に状況を察して小さく頷いた。
「なるほど、道理です。では、参りましょう」
 ルーヴァンスが手を差し出した。
 しかし、ティアリスはその手をひょいと避け、回避の勢いを転じて回し蹴りを繰り出した。細く小さなおみ足は変質者の手をバシッと弾いた。
「甘えんじゃねーです。というよりも、てめーに触りたくねーんです。きめーです。マジ死んじまえです。ウジ虫以下のてめーは地面を這いつくばってワタシを追って来やがれですよ」
「なっ!」
 暴言を浴びせかけられた人の子が驚愕に言葉を失った。流石に腹を立てたのかと思いきや――
「そんな殺生な! 精霊術でご一緒しましょうよ! ラブ飛行しましょうよ!」
 愚者は平生と変わりなかった。
「状況を考えやがれですよ! まったく……」
 ティアリスが頭を抱えた。その後、腕を下ろして胸の前で組み、人の子を気怠げに睥睨した。
 精霊さまもまた平生と変わらぬご様子だった。
 ルーヴァンスとティアリスのいっそ冷静にも見える様に、床に膝をついていたマルクァス=アントニウス卿が小さく息を吐いた。ゆっくりと腰を上げ、床に転がる紅き肉塊に悲しげな瞳を向けてから、視線を転じて神の代行者とでも言うべき者を見つめた。
「ティアリスさま。どうか、ルーヴァンスくんをお連れください」
「うるせーですよ、クソ虫。命令すんなです」
 常識的なマルクァスの言葉はティアリスに一蹴されてしまった。
 大聖堂に顕れようとしているモノが、ティアリスだけの手に負えるのかどうか、人の子には分からなかった。しかし、貴重な戦力に違いないルーヴァンスを連れずに先行するのが正しい判断とは、彼には思えなかった。
「私には正確なところがわかっておりません。目の前の光景――パドル神父が、イルハード正教会の教皇さまに選ばれた者が、神を裏切り、自ら死に行くその光景だけで、私ごときは心が崩れてしまいそうになる」
 イルハード正教会は悪魔を否定し自殺もまた許容していなかった。パドル=マイクロトフはことごとく信仰を裏切ってみせた。
 敬虔な信徒たるマルクァスにとってみれば、それはとても許せることではなかった。
「しかし今は、安穏と絶望に呆けている場合でも、個人的な好みに起因して最善の一手を放棄している場合でも無いのではありませんか?」
 ご尤もな意見であった。
 人の子の言葉が納得に足る以上、精霊さまも今度ばかりは一蹴しかねた。
「……まあ、そうですね。ついでにいやー、のんきに話してる場合でもねーわけですが」
「なればこそ、やはりルーヴァンスくんを連れていくべきだろう。貴女が彼を嫌う気持ちはわかる。確かにとてつもなく気持ちが悪い」
 遠慮の無い御言葉だった。しかし、まごうこと無き事実だった。
 誰もが認めること故に訂正の言葉が入ることも無かった。ルーヴァンス=グレイは気持ちが悪いという前提の元で会話が進んだ。
「彼の奇行は私共でもご免被るところなのだが、今は非常事態だ。どうか我慢してはくれまいか」
「……………」
 マルクァスが深く頭を下げると、ティアリスは沈黙と共に首を振った。
 それは否定ではなく諦観だった。
「ちっ。しっかたねーですね。ヴァン。手を出すです」
「うおおおおぉお! ラブ飛行ううぅう!」
 びくっ。
 しかめっ面で譲歩したティアリスが、せっかく出した手を引っ込めた。
 変態は女児の様子に構わず、卿の御前に跪いた。床に額を擦り付けて懸命に感謝した。
「指令、ありがとうございます! ありがとうございますぅ! 僕は貴方に一生ついていきますから! 女児とお手々を繋いで愛の進撃ぃ! いやっほおおおぉお!」
 大げさすぎる反応だった。
 床を嘗める勢いで頭を下げるさまもまた、とてつもなく気持ちが悪かった。どうしようもなく気持ちが悪かった。
「……やっぱ、独りで地面を這いつくばって来やがって欲しいです」
 ドン引きした精霊さまが独白した。