七章:降臨せし紅闇
〜紅き魔〜

 突然、町に訪れた異変を受け、周辺に住まう者たちは自主的に大聖堂へと向かっていた。かの建物は大きく丈夫で、有事の際には避難場所となっていた。
 今も町中を紅い光が包むなか、人々は街路を早足で急いでいた。
 何が起ころうとしているのかなど、誰にも分かっていなかった。ただ、漠然とした不安が胸にあり、彼らは先を急いだ。そして、彼らが急いだ先に、大聖堂があり、その裏手に、墓地があった。
 空には紅で彩られた六芒星が描かれ、今や、その周りを真円が囲おうとしていた。
 円は図形の六つの頂点のうち五つ目を過ぎ、八割方は完成していた。
 それが完成に近づくにつれ、大聖堂が――いや、正確には大聖堂の裏手の墓地が、紅く、強く、禍々しく、光り輝いていった。
「……な、何だ、あれ?」
 いよいよおかしいと気づいた人々は、ようやく足を止めた。しかし、逃げ出すまでには至らなかった。この期に及んでまだ、全てが崩れることはないと、日常は壊れないと、根拠のない確信の上に危うく立とうとしていた。
 紅い光は墓地の一画に集った。激しく光り輝く様子は不気味ではあったが、どこか幻想的で魅力的でもあった。
「あのお墓は、シスター・マリアの……?」
 誰かが呟いたその時――
 どおおおおぉおんッ!
 上空で何かがピカッと光り、その直後に大地が爆音を上げて粉砕した。墓標が崩れた。
 そこにひゅうぅうっと風を切って某かが舞い降りて来た。
 しゅたっ。
 ティアリスと、彼女に手を引かれたルーヴァンスであった。
 地に足をつき背の白翼が消えると、ティアリスはばっと乱暴に、人の子と繋いでいた手を放した。
「これで終わってくれりゃー楽なんですけどね」
「いや、というか、ティア。被害が……」
 放れてしまった手を残念そうに見てから、ルーヴァンスがため息交じりに言った。
 彼の視線の先では、大聖堂が一部倒壊し、墓地は大部分が粉砕されている。周囲にいた人間もまた、倒れ伏してうめき声を上げている。幸い死者はいないようであるが、少々やり過ぎている感は否めなかった。
 人々はようやく事態が緊迫していることを実感したのか、傷ついた者に肩を貸しながら、大聖堂から離れていった。皆、可能な限り素早く逃げ去った。
 異変に気づいた時点で行動に移っていれば、もっと被害が少なかったことだろう。
 人の子の背中を見送り、精霊さまが嘆息した。その視線は明らかに、痛い目を見て初めて逃げるという選択肢に至ったバカ共を嘲っていた。
「この状況でのんきに突っ立てるクソ虫どもなんか知ったこっちゃねーんですよ。それより、ヴァン。追撃するですよ」
 すぅっとティアリスが指先だけを、ルーンヴァンスに突き出した。
 より強力なトリニテイル術を扱う際、精霊と人の子は物理的接触を持たないといけない。しかし、ティアリスはルーヴァンスになるべく触れたくない。それゆえの行動だった。
 とんっと指先と指先があわせられ、それを契機として、精霊さまの身体に力が満ちていった。二人の接触と、トリニテイル術士たるティアリスの集中を契機として、神の力が人界へと流れ込んだ。
 その力を人の子が受け取り、想像力をもってして具体的な術として形成していった。
 紅き光を駆逐するかのように、二人が光り輝き、そして――
「神炎(イルハーズ・フレア)!」
 力強い言葉にともなって、轟炎が生じた。
 空気を燃やすかのような物音を立てて、轟炎が中空に浮かび上がっていた。人間数名をまるごと飲み込まんばかりの大きさのそれは、ルーヴァンスが腕に力を込めることで、空間を駆け抜けていった。
 どおおおおぉおんッ!
 轟炎は瞬時に墓場へと至り、再び爆音を響かせた。
「このように死者を冒涜するのは、イルハード正教会の信者でない僕でもちょっと心が痛むのですが……」
「我慢しろです」
 端的に応えて、ティアリスはちらりと天に瞳を向けた。
 その視線の先では、赤き光の描く図形がまさに完成するところであった。真円が六芒星を囲い込み、激しく発光し始めた。
 呼応して、墓標のひとつが真っ赤に輝いた。その十字は、先の爆発でもまったく傷ついた様子がなかった。
「……ちぃ! ヴァン、もう一発です! もっとでけーのいくですよ!」
「はい!」
 ちょん。
 ルーヴァンスとティアリスは先ほどよりもひと指だけ増やして、人差し指と中指で触れ合った。そうして再び、神の力を人界へと引き込んだ。焔がどんどんと大きくなっていき、地上に太陽の如き巨大な炎弾が生じた。
「もっとです!」
 天上の血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)をちらりと瞳に映してから、ティアリスが苛立たしげに叫んだ。
 高く掲げた両腕で神の焔を支えていた人の子は、精霊さまの指示に瞠目して反駁を試みた。
「し、しかしティア! これだけの力、町への被害が大きくなりすぎます! 近辺に人影が無いとはいえ――」
「うるせーですよ! まだまだ足りねーくらい……」
 ぱあぁあ!
 叱咤を遮って、紅き光が辺りを満たした。ついに真円が六つの角を囲い、血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)が完成し、すぅと紅光が地上へと降りてきた。
 夕暮れのような紅に町が覆われた。
「ッ! ヴァン! いいからもうぶっ放せです!」
「――神炎(イルハーズ・フレア)っ!!」
 どおおおおおおおおおおおおぉおんッ!
 これまでとは比べものにならない轟音が町を駆け抜けた。
 焔が夜の闇を駆逐するように、紅で染まった尖塔と十字を飲み込んだ。ガラガラと瓦礫が大地に墜ちて、大聖堂が倒壊を始めた。砕片や土塊が街路を埋め尽くし、墓地は平地を通り越して窪地と成った。
「……ちぃ!」
 精霊さまの舌打ちが響いた。
 彼女の視線の先では、唯一つの十字架が窪んだ大地に聳えていた。
 天から降りた光が幾筋もの帯へと転じ、ただ一つ残った墓標に巻き付いた。そのまま、すぅと吸い込まれていった。ともない、墓標が紅く、強く、輝いた。
 毒々しい光の中、黒い影が姿を見せた。墓標の根元から華奢な人の子の身体がゆっくりと起き上がった。
 紅き魔が人界に降り立った。