七章:降臨せし紅闇
〜シスター・マリア=アスビィル〜

「ったく、めんどくせーことになりやがったですよ」
 ぼやく精霊さまの視線の先で、紅い光の中から人影が進み出でた。
「女性? 彼女は確か――」
 姿を現したのは輝く金の髪を爆風にたなびかせた女性――大聖堂で奉仕していたシスター・マリアだった。
 シスター・マリアのようなソレは、すっすと静かに歩みを進め、人の子と精霊さまの佇む場所からある一定の距離にまで至るとスタッと立ち止まって、裾の長い黒スカートの両端をつまみ恭しく礼をした。神に仕える者が纏う質素な黒き衣服だったものは、同じく黒を基調に置きながらも、所々に紅色のレースが編み込まれていた。
「生き返った? いや、これは……」
 パドル=マイクロトフの本懐はコレだった。彼は罪人を裁きたかったわけではなかった。『エグリグル』の悪魔を喚び出したかったわけでもなかった。只、シスター・マリアの死を無かったことにしたかった。魔が持つ強き力をシスター・マリアの遺体に注ぎ込むことで、彼女の肉体の損傷を完治させ、こうして自立させるまでに至った。
 しかし、それは蘇生ではなかった。そこに人の心は内在しない。失われた命は悪魔であっても、例え神であっても、呼び戻せない。命は何をもってしても購えない。死した者は世を去ることこそが理であり、ソレはあらゆる世界――神界、人界、魔界、精霊界のいずれにおいても覆ることは無い。
 その証左であるのか、大海原のように碧かったシスターの瞳は、町に流れた大量の血を吸い取ったかの如き紅へと変じていた。彼女はもうシスター・マリアではあり得ず、魔に支配された愚かな人形でしか無かった。
 その魔人形だけが、数多の生命を犠牲にした結果だった。願いの末路だった。
 一連の事件の結末が無意味なものにしかなり得ぬことを願者(パドル)は理解していた。理解しながらも、彼は愚かな夢を見た。人に、人界に、神に、全てに絶望して、恰も幸福だと錯覚し得るような愚かな幻想を求め、瞳を閉じたまま悪魔の誘惑に従った。愚かな珠玉の願いのために、彼は自らの人の心を犠牲にして五名の罪人を粛正し、その上で自らの命をも捧げた。
「ふん。くだらねーです。マジでくだらねーです」
 呟いたティアリスの顔には緊張が見えた。その頬をひと筋の汗が伝った。
 精霊さまにとって、人の子の愚かな夢想はどうでもよかった。けれど、彼女の目の前に佇むモノは夢でも幻でもなかった。圧倒的な力という名の現実だった。
 シスター・マリアの顔をした紅き悪魔は、金の髪を揺らして頭を上げた。紅く大きな瞳には鋭い光が宿り、降り立ったばかりの人界を見渡していた。
 派手に倒壊した大聖堂や見る影も無い墓地、町の惨状をひととおり紅へと刻んで、シスター・マリアだったモノは楽しそうに微笑んだ。ゾッとするような曇りの無い笑顔だった。
 彼女はそのままの表情でルーヴァンスとティアリスを目にし、可笑しそうに瞳をより一層細めた。
「よぉ。お初じゃの。お主らは如何にして死するのがお好みじゃ?」
「は?」
 しゅたっと手を上げた紅き魔を目にして、ルーヴァンスは間の抜けた声を上げた。いくら悪魔が相手とはいえ、いきなり死に方の希望を訊かれるとは思いも寄らなかった。戦時中に三名の『エグリグル』の悪魔と関わりを持った彼であっても、目の前に顕れたモノのようなタイプには出逢ったことがなかった。
「ああ、そうじゃ。名乗るのを忘れておった。ウチの名はアスビィルじゃ」
 紅眼の女性を象ったモノはそう名乗った。見た目がシスター・マリアのそれだったとしても、やはり希望は欠片として無かった。シスター・マリアはもう四界のどこにも存在していなかった。
 シスター・マリア=アスビィルは小首を傾げて、申し訳なさそうに小さく息を吐いた。
「ふむ。ウチはせっかちでの。尋ねておいてすまんが、こちらで決めた」
 紅魔が微笑んだ。
「切り刻まれて死ぬがよい」
 シスター姿の悪魔が物騒な言葉を口にした直後、一帯を風の刃が薙ぎ払った。神の焔による破壊の中でも辛うじて残っていた、広間を緑で彩る木々が、魔風によって切り倒された。いまだに遠くから恐々と見物していた人間たちもまた、何が起きたか気がつかぬうちに切り刻まれ、ただの肉片と化した。
 しかし、ルーヴァンスとティアリスの身に刃が届くことはなかった。彼らは直前に神の力を呼び込み、光の楯を形成していた。
「……くっ」
 ぐちゃりと崩れ落ちた肉塊から漂ってくる鉄の臭いが、ルーヴァンスの鼻をついた。彼は小さく呻いて、悔しそうに顔を顰めた。
 一方で、シスター・マリア=アスビィルは恍惚とした表情を浮かべ、口の端を持ち上げた。
「ふふ。人の血はいい匂いがするのぅ。ほれ、お主らも遠慮なく臓物をぶちまけるがよいぞ。もっとウチに清香を嗅がせておくれ」
 伸ばされた腕からひと筋の紅線が生じた。
 光とも闇ともつかぬ線は瞬時にルーヴァンスとティアリスの元へと至ったが、小手調べに過ぎなかったのだろう、ティアリスの腕の一振りで霧散した。
 魔の者は別段反応を示すでもなく、くつくつと声を立てて嗤った。可笑しそうに身体を折り曲げた。
「よいのぅ。魔界で悪魔を殺しても楽しいことは楽しいのじゃが、やはり、人界で人を、というのがよい。ウチらに悪を押しつけるにっくき者どもを自由に殺せる。そういう状況こそが、最高のスパイスなのだろうのぅ」
 彼女、ひょっとすれば彼が呟いた。顔に愉悦が広がっていた。
 しかし、シスター・マリア=アスビィルは、身構えているティアリスを注視して眉を潜めた。
「ん? そちらの子供は……精霊かえ? お主たちは、ウチらが人をたぶらかすと直ぐに顕れるな。イルハードや精霊王も、実に過保護よなぁ」
 呆れた様子で、悪魔が嗤った。
 精霊さまもまた嗤った。
「ふんっ。そこは意見が合いやがるですね。正直に言いやがれば、クソ虫のために人界くんだりまで来んのは気にくわねーですし、クソ神もうちんとこのボケ王も死んじまえと、常々思ってるです」
 イライラした表情を隠すこともなく、ティアリスが応えた。適当に話を合わせているわけではなく、本心からの言葉のようだった。
 紅き魔――アスビィルが一層おかしそうに嗤った。
「ふふ。なかなかに面白い精霊じゃ。殺すのが惜しいのぅ」
 そう言いながらも、シスター・マリア=アスビィルは紅黒い光を遠慮なく放った。
 光はティアリスたちへと真っ直ぐに向かった。
 瞬時にティアリスがルーヴァンスの腰に軽く手を当てて神の力を注ぎ込み、ルーヴァンスはその力を元として守りを具現化した。
「神楯(イルハーズ・ガード)!」
 白く輝く楯が黒を防ぎ止めた。しかし、相殺しきれなかった。
「なっ!」
 精霊さまの驚嘆が紅く染まった町に響いた。
 伴って、楯にはほころびが生じ――
 ぱぁんっ!
 鋭い音が響くと同時に弾けた。
「神楯(イルハーズ・ガード)!!」
 人の子と精霊さまは、直ぐに二つ目の光を生み出すことで、今度こそ全ての黒を相殺するに至った。
 しかし、その余波は人の子と精霊の身体に少なからずの傷と疲労を与えた。