七章:降臨せし紅闇
〜小さな希望〜

「ほぉ、防ぎおったか。その力は神のモノ…… トリニテイル術かえ?」
 シスター・マリア=アスビィルが小首を傾げた。
 神の力を行使する術のことは、悪魔の間でも囁かれているらしかった。ゆえに、シスター・マリア=アスビィルは、ルーヴァンスたちの抱える問題を素早く察した。
「しかし、お主ら。相性があまりよくないのではないかえ? 『エグリグル』の中でも一、二を争うウチの力とはいえ、所詮は魔化術じゃ。大した威力は出ん。本来、神の力であれば容易に防げるはずじゃぞ。それをああも苦心して防がねばならぬとは、情けないのぅ。せっかくのトリニテイル術士を交えたお遊び。早々に終わってしまってもつまらんぞ」
 肩を竦めて紅魔が嘆いた。そこには充分な余裕が窺えた。
 それほどに、目前の人の子と精霊が矮小だったのだろう。
「そんな! 僕とティアの相性は抜群! これ以上ないベストパートナーですよ! 女児最高!」
 変態が空元気と共にしゃしゃり出た。どさくさに紛れてティアリスの小さな頭を撫でていた。
 当然ながら、精霊さまは怒髪天で瞳をつり上げた。
「やかましいですッ! くたばれです、このクソ虫共ッ!」
 ティアリスは、頭上に置かれた大きな手をバシッと力いっぱい払いのけた。人の子への嫌悪から大きく身震いし、こめかみには青筋を立てて、彼女は怒鳴った。
 人の子と悪魔、どちらの言葉に対してもその呪詛は向けられていた。
「ふふふっ。そちらの人の子もおもしろいのぅ。アレなところも、サタニテイル術士としての資質も、興味深い。魔界で下々のものが噂しとる『魔の上に立つモノ(ドミナトゥル)』という二つ名の術士がお主じゃろう? お主に喚ばれたのなら、ウチももっと力を奮えただろうにのぅ」
 残念そうに、アスビィルが独りごちた。
 当然ながら、サタニテイル術士にも実力の違いはある。『エグリグル』の悪魔ほどのレベルからすると、パドル=マイクロトフはあまりよい術士ではなかった。少なくとも、ルーヴァンス=グレイよりは劣っていた。
 実力の伴わないパドルの力で顕れたシスター・マリア=アスビィルは、頬に手をあてがって嘆息しつつ、その片手間に紅闇を操った。ようやく危険を肌で感じた人々が逃げていく南へと軽く放った。
 ずんッ!
 背を向けて必死で駆けていた数名が、紅色の闇に呑まれて消えた。
「本来ならば、ああして戯れに数名を屠るのみにとどまらず、駆けている者どもを一掃できてよいのじゃ。それどころか、ウチならばお主らの住処と海をまとめて葬りされるところじゃぞ。まったく、情けない……」
 抱えた頭を左右に振ってから、アスビィルは満面の笑みを浮かべた。紅き瞳を細めて、同じく紅色の唇を持ち上げた。胸の前で左手を握り、右手をルーヴァンスへと伸ばした。
 神の力を纏う人の子に魔の力を魅せた。
「だからの。ウチと改めて約さぬか、『魔の上に立つモノ(ドミナトゥル)』よ。パドルの構築した血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)は未だ健在じゃ。お主の実力でウチと再契約すれば強大な力を得られるぞ。あらゆる願いを叶えられよう。過ぎた時も、消えた命も、取り戻せる『かも』しれんぞ?」
 嘘だった。そのような理は決して有り得なかった。
 当の『魔の上に立つモノ(ドミナトゥル)』は、シスター・マリア=アスビィルを拒絶するように頭(かぶり)を振った。
 ルーヴァンス=グレイは識(し)っていた。時も命も戻らない。絶望は覆らない。魔の示す希望が人を救うことは決して無い。彼は識り尽くしていた。ゆえに、苦笑と共に否定を口にした。
「お断りします。貴方と戯れる気はありません。……万が一、僕が再び魔と約することがあるとしても、貴方のような質の悪い二枚舌と組む気にはなれません」
 頑とした拒否を受けて、シスター・マリア=アスビィルが肩を落とした。
 紅の刺繍が映える黒き衣服がゆらりと風になびいた。紅き光を反射して輝く金色(こんじき)の髪の毛もまた、さらりと流れるように揺れた。
「ふむ。残念じゃのぅ。せっかくの戯れじゃからして、激しく華やかに楽しみたかったのじゃが…… ウチはもう泣きそうじゃ」
 シスター・マリア=アスビィルは、弱々しい声を作って、泣き真似までもして見せた。紅魔の行動の全ては遊戯に過ぎなかった。
 紅き上唇と下唇の隙間からぺろりと真っ赤な舌が見えた。
「ふふ。まあ……」
 口元が綻んだ。
 黒と紅の袖が持ち上がり、魔人形の白くたおやかな右腕が映えた。
 白魚のような指の先に紅き光が宿った。
「こうして人界で脆弱な人間どもを相手にするくらいであれば、この程度の力でも充分なわけじゃがな! はははははッ!」
 シスター・マリア=アスビィルは哄笑して、右手の五指をくるりと回した。
 その何気ない動作に伴って、悪魔から破壊の力が解き放たれた。
 紅黒く細い光がルーヴァンスたちへと向かい――
「神楯(イルハーズ・ガード)!」
 さきほどよりも威力の高い攻撃であると見て取った二人は即座に、防護障壁を五重に渡って展開した。
 ぱぁん!
 一枚目の楯が弾けた。
 ぱぱぁん!!
 二枚目、三枚目と、光の壁は、紙が破けるように消え去っていった。
「ティア!!」
 慌てた様子で、ルーヴァンスがティアリスを引き寄せて抱き止めた。彼はそのまま大きく横に跳んで、地面に伏した。
 ぱぱぁん!!
 その直後、紅黒い光が四つ目と五つ目の光をも消し去った。全ての楯を貫き後ろへと抜けていった。
 ずぅん……!!
 破壊の光が建物に着弾し、周りの数棟を巻き込んで倒壊した。重苦しい音が周辺に響き渡った。
 ルーヴァンスは大地に横たわったままで唇を噛んだ。
(くっ。この威力は…… 戦時中に喚び出していた『エグリグル』の悪魔のさらに上を行く。いくら町全体を巻き込む血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)を用いたとて、ここまでの魔化術をパドルさんが為せたとは到底思えない)
 喚び出されたアスビィル当人はパドル=マイクロトフの実力を酷評していた。ルーヴァンスが元サタニテイル術士としての感覚に頼って客観的に評価しても、パドルの力と招じている魔の気配の濃さが比例していないように感じられた。
「ふむ。これくらいが限界かの。三割――いや、せいぜい二割方といったところか…… やはり、あまり威力が出ないようじゃ。まあ、適当な術士をたぶらかして喚ばせたらこんなもんかのぅ」
 白い指先で紅き唇をなぞりながら悪魔が独りごちた。
 シスター・マリア=アスビィルのその言葉を耳にして、ルーヴァンスが納得したように頷いた。
(人の弱い心と浅ましい願いにつけ込んだ、悪魔側からの召喚要請か。だからこそ、実力不足であってもこんな強力な奴を……)
 本来、術士に実力が無ければ悪魔は応えすらしない。実力の不足した人間を介した場合だと、人界で奮える力に大幅な制限がかかってしまうためである。
 アスビィルはそのような『常識』を無視した。術士の実力不足は巨大な血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)で補い、人界へ降り立つことをまず優先した。
(しかし、なら――)
「とっとと離せです!」
 がしっ!
 ティアリスはルーヴァンスの鳩尾に拳をたたき込み、彼が痛みによって動きを止めている隙にその腕から逃れた。大地に雄々しく立って、人の子を睥睨した。
「はうっ。い、痛いですよ、ティア」
「痛くしたんですよ」
 ルーヴァンスは、腹を辛そうに押さえつつも、彼女に続いて立ち上がった。
 彼がシスター・マリア=アスビィルに瞳を向けると、紅魔は飄々とした様子で佇んでいた。直ぐに追撃をかける気はないようだった。人の子も精霊も脅威になり得ない。紅魔にとって彼らとの戦いは只の戯れでしかなかった。
 同様に魔の様子を窺っていたティアリスは、眉を潜めて舌打ちをした。そうしてから、指をくいくいと動かして、隣に佇む人の子にかがむように指示した。
 ルーヴァンスが腰を曲げてティアリスの口元に耳を寄せた。伴って、息遣いが多少荒くなった。
 ティアリスはとてつもなく嫌そうな顔を浮かべつつも、言葉を紡いだ。
「ヴァン。元サタニテイル術士の見解を聞かせろです。この状況は打開可能ですか?」
 囁き声で、精霊さまがそう尋ねた。
 彼女――トリニテイル術士としては、現状で勝算がないと判断せざるを得なかった。ルーヴァンスとティアリスの間の信頼関係が希薄過ぎるがゆえの判断だった。トリニテイル術は神と人と精霊の相互理解や信頼関係が威力に直結してくる。そのため、彼らの関係性の悪さは致命的な欠点となっていた。
 なれば、トリニテイル術のみに頼り続けたなら、大人しく死を待つしかないのだが、勿論、そのまま絶望を迎えるわけにはいかず、希望を模索せねばならない。生きている間は死を忌避し、生に執着するのが、命ある者の責務であり義務であった。
「まあ、薄氷の上に立つような状況ですが、まだ可能性はありますよ」
 元サタニテイル術士には希望の道が微かながら見えていた。彼はまだ絶望にうちひしがれてはいなかった。彼は大きく息を吸ってから、紅魔を睨み付けた。そうして魔を牽制しつつ、口元に微かな笑みを浮かべた。