七章:降臨せし紅闇
〜紅色の町〜

 海が紅かった。
 水面は鏡面のようなもので、昼の晴天を映し込めば青く成り、暗い曇天を映し込めば黒と成る。此度のように天を紅き光が覆えば紅と成るのが道理だった。
 血のような海面と同じく血のような天上をそれぞれの眼に映して、リストールの町民たちは絶望に嘆息した。警邏隊の誘導で港へ避難してきたが、現状ではこの場も安全とは言い切れないように感じていた。だからといって、何処が安全なのか、町を出れば安全なのか、寧ろ危険なのか、彼らには判断がつかなかった。ゆえに、彼らは不安を抱きながらも港に佇んで紅を眺めるしかなかった。
 人がひしめく港場では、方々で嘆きの言葉が囁かれていた。
 一区画では怪我人の救護が為されていた。怪我人は軽傷の者から重傷の者まで様々だったが、助かる命があれば失われる命も当然有った。運命は幾たびも別たれ、或いは希望の涙が流れ、或いは絶望の涙が流れた。
 そして、今一度(いまひとたび)雫がこぼれ落ちた。伴って歓声が上がった。
 意識を失っていた少女がゆっくりと瞳を開いた。
「う、うぅん…… あれ、ボクは……」
 身を起こしたセレネ=アントニウスのまわりには、彼女の弟のヘリオスや父マルクァス、母ミッシェル、そして、アントニウス家の使用人たちが集まっていた。
「気がついたか、セレネ」
「パパ。ここは?」
 娘が尋ねた。しかし、応えたのは父でなく――
『我が悪友が町の中央で暴れているものでね。町の南端――港に避難しておるのだ』
 幼き声音だった。
「え?」
 戸惑った表情を浮かべ、セレネが辺りをキョロキョロと見回した。声の主はどこにもいなかった。
「どーかしたか、セリィ?」
 双子の弟に尋ねられても、姉は首を傾げるばかりであった。状況が把握できぬがゆえに、沈黙を選択した。
 すると、謎の声が沈黙を埋めるように再び語り出した。
『安心しろ。悪友――アスビィルの目的は果たされた。私がお前を利用する必要もなくなったのだ、セレネ』
「もしかして、あの時の悪魔さん?」
「はっ? 悪魔? ど、どこに!」
 セレネの呟きを受けて、ヘリオスが大いに慌てた。その動揺は使用人にも伝播していき、周囲はざわざわと騒がしくなった。
 そのような中でも、セレネの頭には某かのクリアな声が語りかけてきた。耳朶を刺激することなく、脳に直接言葉が伝わってくるような、不思議な感覚だった。
『先頃は、アスビィルが利用していたサタニテイル術士が介入したゆえ、自己紹介が出来ていなかったな。私は『エグリグル』の悪魔アルマースという』
「ボクはセレネといいます。……えっと、というか、ボクはなぜ寝ていたのでしょう? ちょっと身体が痛いし…… それに、避難って?」
 頭に響くアルマースの声を受けて、セレネが丁寧に頭を下げた。傍から見ると妙な光景だった。
「? お前、悪魔に無理やり操られたみたいになって、んで、ティアリスさんにぶっ飛ばされたんだよ。覚えてないの?」
 悪魔アルマースの声が聞こえないヘリオスは、首を傾げつつ、セレネの言葉に返答した。
 アルマースに尋ねたつもりだったセレネは、悪魔の声が他の者に聞こえていない事実をようやく察した。
『無理やりとは心外だな。多少、理性のたがを外して力を与えただけだぞ。全ての行動はお前自身の願いだ。アスビィルに頼まれたのは精霊の足止めであったから、やり過ぎない程度にとどめたしな』
 幼い声音が、言い訳めいたことを可笑しそうに語った。如何なる事情や多少の気遣いがあろうとも、セレネを操って利用したことには変わりないと自覚していた。
 言外に謝罪の気持ちを汲み取ったセレネは、苦笑してからゆっくりと頭(かぶり)を振った。
「まあ、それはいいとして、何故まだいらっしゃるのですか?」
 ひそひそと、可能な限り潜めた声でセレネが尋ねた。
 周りがざわざわと騒がしいため、彼女の声が聞きとがめられることはなかった。
『もとより私は、人界へ顕現していたわけではない。魔界に居るままで、お前に声や力を送っているだけだ。それゆえに、精霊の攻撃を受けようがどうしようが、私が傷つくことはないし、滅びる謂われもない』
「……それで、ボクだけが痛い目を見たというわけですね」
『そうだな。ご苦労なことだ。まあ、死ななくてよかっただろう。実にめでたい』
 悪びれた様子のない声に、セレネが苛立った。頬を膨らませて何処とも無く睨み付けた。
 彼女の頭の中で、アルマースが舌を出してみせた。その光景が瞳に映ったわけではなかったが、セレネはそう感じた。
 すっ。
 憤懣やるかたなしといった様子のセレネの隣に、ミッシェルが近寄った。
「セレネ」
「あ、ママ。ご心配おかけしてごめんなさい」
 セレネとヘリオスの母、ミッシェルは、何かにつけて心配性で、子供たちが怪我をしたり病気をしたりすると、直ぐに泣き出すのが常だった。それゆえ、セレネはこういった場合、直ぐに謝るクセがついていた。
 ミッシェルはそんな娘に微笑みかけて――
「アルマースはそういう性格ですし、適度に話を流すのが付き合う上でのコツですよ」
「……え?」
 予想外の言葉に、セレネは呆けた。
 ヘリオスにはアルマースの声が聞こえていないようだった。状況から察するに、マルクァスや使用人たちについても同様だろう。
 そうであるにも関わらず、ミッシェルはセレネとアルマースの会話を耳にし、それどころか、悪魔を前々から識っていたかのように語った。
「……あの、ママ?」
「アルマース。アレはどなた?」
 ミッシェルは娘の問いかけに応えず、姿の見えない悪魔に尋ねた。
 アルマースは声だけで肩を竦めて視せた。
『久方ぶりだというに挨拶も無しか。まあ良いがな』
 一拍置いて幼き声は嗤った。
『奴はアスビィル。お前は一度約したことがあっただろう? 最もお前ら人間を悪んでいる魔だろうな』
 ミッシェルが嘆息した。
「やはり、彼女ですか。それじゃあ、ルーちゃんには荷が勝っているかもしれませんね」
『ルーヴァンスは神よりも魔に適しよう。アレでは実力の半分どころか一割も出せん。あのまま精霊と共に在れば――死ぬな』
 知己の語らいは絶望へと達した。
 セレネが息を呑んだ。
「そんな……!」
「どうしたんだ、セリィ。母さんもさっきから誰と話してるの?」
 顔色を悪くしている双子の姉を気遣いつつ、ヘリオスが首を傾げた。
 彼に応える者はなく、幾ばくかの時が流れた。
 沈黙を破ったのは、町の中央で響く爆音だった。遠目に建物が崩壊していく様が映った。
「ヴァン先生っ!」
 先ほどの悪魔の言葉と、響く爆発の音と。セレネの心に不安の影が差すのは当然だった。
 彼女は駆け出した。
「セリィ!」
 同じく一歩を踏み出したヘリオスだったが、その肩を押さえられて立ち止まった。彼が振り返ると、微笑む母の姿が在った。
「セレネにはアルマースがついています。大丈夫ですよ」
「あ、あるまーす? てか、あいつ独りだったよ?」
 ヘリオスは、走り去るセレネの姿とミッシェルの顔を交互に見つつ、戸惑った。どうするべきか大いに迷った。
「アルマースが居るのか?」
「正確には『居た』ですわ、あなた」
 横手からのマルクァスの問いに、ミッシェルが穏やかに応えた。
「セレネについてルーちゃんの元へ向かったようです。彼女ならセレネを守ってくれるでしょう。それよりも――」
「ルーヴァンスくんか。どうなんだ?」
 端的な質問だった。彼は事情をある程度察しているようだった。
「相手が悪いですね。アスビィルです」
「ティアリスさまと――イルハード神と共に在っても勝てないのか?」
 神の名を耳にして、ミッシェルの顔から笑みが消えた。言葉にも棘が生まれた。
「あなたもご存じの筈です。愚かな神の力など信じるに値しません。彼と共に在っては何者も絶望に囚われずには……いえ、私怨を内在した分析はやめましょう」
 ゆっくりと頭(かぶり)を振ってから、ミッシェルはひと息つき、硬かった語り口をゆるめた。
「客観的に見て、ルーちゃんと精霊の相性は最悪でしょう。彼女を相手取るには力が間違いなく不足しています」
「……いざという時は頼めるか?」
「……まあ、構いませんけれど」
 そこで会話は途切れた。
 夫婦の間で為された謎のやりとりを受け、息子は眉を潜めた。何が何だか全く分からなかった。
 不得要領のまま、ヘリオスは紅に染まった町を瞳に映して、他の町民同様、不安に立ち尽くした。