八章:予定調和
〜返咲く紅魔〜

「……何故……ごふっ」
 左肩から腹部まで切り裂かれた魔の身体からは、赤黒い体内が覗き、紅々とした口元からは、赤黒い液体が漏れ出でていた。その瞳にはいつの間にか海のような青が差していた。
 それは、紅き魔の支配が弱まった証左であった。
「いける……ッ!」
 勝機を見いだした人の子が光の刃を薙いだ。
 ぼと。
 白く細長い指が数本墜ちた。
 びちゃ。
 悪魔の腹が割け、紅が大地を穢した。
 ぐチゃあッ。
 臓物が腹の傷口から垂れて出でた。紅がドクドクと溢れて地面を染めた。
 痛みを、苦しみを、何とか軽減しようと、アスビィルはシスター・マリアの身体に力を送り込み続けた。しかし、能わなかった。力は屍体(からだ)へ至らず、何処か別の所へと流れてしまった。
 紅魔の姿は哀れのひと言に尽きた。数多の傷をその身に刻み、痛みに、苦しみに、青白い顔を歪めていた。
 シスター・マリア=アスビィルは両手の十指が千切れるのにも構わず、力を放ち続けた。
 破壊の光は人の子と精霊にそれぞれ迫り、共に霧消した。
「第一精霊術『煌々壁(こうこうへき)』!」
 微弱な精霊の力は紅魔の力に及ばないはずだった。そうであるにも拘わらず、精霊の術は容易に悪魔の紅黒い光を妨げた。
「はあぁあ!」
 気合い一閃。ルーヴァンスが光刃を突き出した。
 光は魔の胸に吸い込まれた。
「……ぐっ……」
 シスター・マリア=アスビィルがなけなしの力を振り絞って後ろに跳んだ。肩から、胸から、腕から、指先から、そして、口元から赤黒い液体を止め処なく流し、ついには膝をついた。
 相対する人の子も精霊も、その好機を見逃すわけが無かった。彼らはそれぞれ天上と地上から、もはや人界での命が風前の灯火となってしまった魔へと迫って行った。
 最期の時が近づく中で、しかし紅魔は、冷静に力の流れを読んでいた。魔界に居るアスビィル本体は一定の力を人界へと注いでいた。その力が全てシスター・マリア=アスビィルに集っているのならば、現状は考えられなかった。
 神の力――トリニテイル術が魔を退けたのならば、神と人の子と精霊の絆が強くなった結果だっただろう。しかし、実際は精霊の力が破壊を妨げた。
 相性に左右されるトリニテイル術の威力が突如変化することはあり得た。しかし、精霊単独の力が大きく変化することはあり得なかった。
 そこから導き出される結論は、傀儡(シスター・マリア)へ集うアスビィルの力が弱くなっているという事実に他ならなかった。
「……なるほどのぉ」
 刹那、悪魔は全てを察した。その視線は、ある一点で止まった。
 神を抱く筈の者の内に――魔が在った。
 魔を内に秘めたルーンヴァンスを見つめ、アスビィルは指が数本しか残っていない右手で口元の紅を拭い、辛苦の時を楽しむように嗤った。
 伏せた瞳には徐々に紅が差し始めた。海の青は血の紅へと再び変じた。
 伴って、シスター・マリア=アスビィルには再び紅魔の強き力が満ちた。血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)の恩恵がただ一点に収束した。
 すぅ。
 爛れた皮膚は白へと変じ、千切れかけた四肢はスラリと伸びた。落ちた指は細く白く元の通りに成った。黄金に輝く御髪も紅き瞳も元と違わず、傷だらけの悪魔は瞬時に人の形を取り戻した。
 彼女が身に纏う漆黒の衣服は紅き液体を吸って紅魔に相応しき色合いを帯び、所々が破けて白き肌が覗いていた。極力肌の露出を避けて父なる神に仕えていたシスターとしての面影は、もはや何処にも無かった。
 紅と黒と白を備えたシスター・マリア=アスビィルは、指に付いた血液をひと嘗めし、口元を歪めた。
「ウチの力をお主からも感じたのぉ、元サタニテイル術士よ。横取りとは感心せんぞえ」
「……おや。随分とお早いお気づきですね」
 光の刃を携えた人の子が、微笑みながら言った。しかし、彼の顔には焦りが窺えた。
(アスビィルの力を横から奪い、マリアさんのご遺体に流さないようにして弱体化する…… 作戦として単純ゆえに、気づかれてしまえば同じ手は使えない。力の向かう先を調整されてしまう)
 実際、シスター・マリア=アスビィルに宿る闇の量が元に戻っていた。パドルの力量で喚び出された分の紅闇は全て、確実にシスター・マリアへと供給されていた。
 今や、ルーヴァンスがいくらアスビィルから力を得ようと働きかけても無駄だった。アスビィルが人界へ雪いだ力の全ては、シスター・マリアの屍体(からだ)へ向かうように調整されてしまった。
「第七精霊術『聖霊弾(しょうれいだん)』ッッ!!」
 ずんッ!
 ティアリスが焦りを含んだ舌打ちと共に天上へと飛び上がり、幾百にもなる白き光の筋を放った。
 しかし――
 パァン!!
 白は紅闇に容易に弾かれ、鋭い音と共に霧散した。
 血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)より出でる力は、失していた強度を取り戻してしまっていた。
「良いのぉ! お主らは手強(おもしろ)いのぉ!」
 高らかに哄笑し、紅魔が叫んだ。
「ウチは人間を嬲るのが極めて好きじゃが、手応えの在る者をより強き力で蹂躙することもまた大好きなのじゃ!」
 シスター・マリア=アスビィルは頬を紅く染め、恍惚とした表情で呪いを叫んだ。
「未だ未だ楽しき催しをウチは所望するぞえ!!」
 紅々とした口元をニイィと三日月型に歪め、アスビィルは両の腕に紅黒き光を生み出した。
 紅き黒弾が方々に放たれ、或いはルーヴァンスの立つ大地を、或いはティアリスの翔る大空を、或いは誰も居ない瓦礫の山を襲った。
 方々で破裂音が響いた。
(……ちっ。さっきの攻撃でしとめられなかったのはいてーですね)
 心の中で毒づき、ティアリスは白翼を羽ばたかせて天上を駆け回った。迫ってきた黒弾を全て避けてから、シスター・マリア=アスビィルへと意識を集中した。
「ティア!」
 その時、ルーヴァンスの声が響いた。声には焦燥の念がふんだんに込められていた。
 ティアリスが視線を移すと、黒の弾が横手から襲い来るのが目に入った。それをすんでのところで避けた。
 先ほど避けたいくつかの弾が、途中で方向転換して再び襲い来たらしかった。
 どん!
 更なる追撃を防ぐために、女児が白き光弾を生み出して黒弾へぶつけ、意図的に破裂させた。
「ふぅ。今のは危なかったです……」
 ティアリスが天上で白翼をはためかせながらひと息ついた、その時――
 ずんッ!
 アスビィルからまた新たな光が放たれた。
 黒き光はまっすぐ精霊へと向かった。光線の速度は彼女の認識をはるかに超えるものであり、避ける暇はなかった。
 どおおぉん!!
 炸裂音が一帯に響き渡り、天上を爆煙が覆った。
「ティア!!」
 絶望に表情を歪め、人の子が叫んだ。