八章:予定調和
〜白髪の悪魔〜

 魔界の片隅において、アルマースが小さく嘆息した。彼女は深呼吸をして苦笑いを浮かべた。
『そうだな。済まん。取り乱した』
 素直に謝罪を口にして、悪魔は話を元に戻した。
『兎に角だ。ルーヴァンスは悪魔(わたしたち)と接し過ぎたのだ。せめて、魔と関わらずに傷を抱えて人の中で暮らしたなら、どのような形であれ、何時かは人を赦し、人界を赦し、神を赦せただろう。それが叶わなかったのは悪魔(わたしたち)の――いや、魔(わたし)のせいだ。ゆえに、そいつは私と再び約すべきでは無い』
 人が力を得ることは容易い。魔が力を与えることは容易い。
 けれど、それでは未来(さき)へと向かえない。
『ルーヴァンス。取り敢えずお前は神のことを忘れろ』
「は?」
 突然の申し出に人の子は眉を潜めた。話の流れが全く分からなかった。
『トリニテイル術は神との関係も肝要だが、今のお前がイルハードをどう意識しても無駄だ。ならば考えるな。奴を憎むな。奴を赦そうともするな。只、忘れろ。即席で出来ることなどそれくらいだ』
「いや、アルマース。忘れろと言われて直ぐに忘れられるわけが――」
『五月蠅い。黙れ。異論は認めん』
 幼き声音の悪魔は問答無用で話を打っ遣った。
『次は精霊だ。セレネ、頼む』
「あ、はい。アリスちゃん。アルマースさんが何かお話があるそうです」
「あ?」
 少女の通訳を受けて、精霊さまが迷惑そうに瞳を細めた。人の子を通じて会話をするのが面倒になってきていた。
「クソ悪魔その二。うっぜーんで、もういっそセレネに憑りついてくんねーですか」
「嫌ですよ!」
 精霊の提案は、人の子に全力で拒否された。
 魔の者もまた、語らうのみを目的としてセレネの体を操る気は無いようで、小さなため息を吐いてから言葉を人界へ飛ばした。
『それは私も本意ではない。ふむ。仕方が無いな。セレネ。地面に六芒星(ヘキサグラム)を描け。血は要らん』
「え? は、はい……」
 頭へと響いた指示に従い、セレネがしゃがんだ。転がっていた石片を手に取って、魔を喚び込む図形を描いた。
『よし。少し離れていろ』
「はい」
 再び頭へと去来した声の通りに、人の子は描いた六芒星(ヘキサグラム)から距離を取った。
 人と精霊の視線が、大地に描かれた六角の図形へと注がれた。
『顕(アブロード)』
 魔界からは言葉と共に力が雪(そそ)がれ、ぽんっと小さな物音が響いた。
「ふむ。これで良かろう。私の声が聞こえるな、精霊」
 六芒星(ヘキサグラム)の中心に顕れた手の平サイズの幼子が、腰に手を当てて居丈高に言った。真っ白な髪を微風に揺らし、淡紅(とき)色の瞳をティアリスへと向けていた。真紅のドレスは人形の為に作られたかのように小さく、装飾が細やかだった。
「ちっ。んなことが出来んなら、最初からやりやがれですよ」
 紡がれた文句には言葉を返さず、アルマースが黒き翼を背に生み出して飛び上がった。不満あり気な精霊さまの目の前を漂い、彼女をまじまじと見つめ、小さな小さな口を開いた。
「……ふむ。まだ若いな。百、いや、八十といったところか。しかし、ルーヴァンスと比して充分過ぎる程の年月を生きているだろう。そも、循環生命としてならば数千年は優に超えていよう。年の功で奴の気持ち悪さぐらい許容しろ」
「無理です。クソきめーです。準縄(じゅんじょう)の埒(らつ)を余裕で飛び越えていやがるです」
 がしッ!
 顔の前で手の平をひらひらと振り、はっきりと拒絶してみせてから、ティアリスは目前の小さき生き物を、紅葉のような両の手で鷲掴みにした。
「つーか! てめーはヴァンと契約していた悪魔みてーですけど、どういう教育してたですか!」
「知ったことか。そも、私は奴の保護者では無い。それに、私と共に在った時は奴も捻くれているだけの只の餓鬼だったぞ。セレネの記憶の中の今のルーヴァンスを窺い見て、私も魂消(たまげ)たくらいだ」
 悪魔が語る純然たる事実に、精霊さまは耳を一切傾けなかった。不満を口にしてストレス解消を試みるのが主立った目的だったため、魔が提示した情報には何らの意味も見出さなかった。
 そして彼女は、更なる不満を吐露した。
「あの野郎がもうちょっとだけでもマトモなら問題ねーんですよ。第一級トリニテイル術士のワタシが居るんです。クソ人間に多少問題があるくらいなら余裕なんです。けど、よりにもよってあんな超弩級の変態じゃあ…… あー! あんな中途半端な力しかねークソ悪魔に遅れをとるなんて我慢ならねーですよ、もー!!」
「言ってくれるのぅ」
 墓に腰掛け、頬杖を突き、紅魔がくつくつと嗤った。
 一方で、白髪の魔が嘆息した。
「まあな。許容しろと言われて許容出来るなら苦労せんよな。なれば――」
 アルマースはもぞもぞと動いて、握られた手の隙間から両腕を出した。その腕をすっとティアリスの細い指に沿えて、淡い紅玉を閉じた。
「兎に角、識(し)るが良い」
 すぅ。
 溶け込むように、ティアリスへ新たな記憶――悲劇や喜劇が入り込んだ。いずれもルーヴァンスに関わるものだった。彼は魔と共に人界に蔓延る理不尽と必死で戦っていた。そこには、変態性の欠片も無かった。
「……マジで昔のヴァンは比較的まともだったですね」
「まずソコか」
 精霊さまの呟きを耳に入れて、アルマースがくつくつと笑った。
 対して、ティアリスは肩を竦めて嗤った。
「他に目新しいことなんてねーですし。大概予想通りで、人界に有り触れたクソくだらねー悲劇の集合でしかねーじゃねーですか。だから何って感じです。思うところなんて一つもねーですよ」
 彼女の言葉は間違ってはいなかった。ルーヴァンスに訪れた物事は、過去でも未来でも人界に有り触れていた。
 しかし彼女は、言葉の通りに何も感じていないわけではないようだった。
「事実を予想することと識(し)ることは違う。多少でも感じ入ることが有るなら何よりだ。術の威力に良い影響があることを祈る」
「……ふん。ヴァンが変態クソ野郎なのは変わらねーから期待薄です」
 白髪の悪魔は苦笑し、緩められた精霊さまの手から逃れた。黒翼を羽ばたかせて残る人の子の元へと向かった。
 セレネの肩にちょこんと小さな小さな魔が座った。
「あ、アルマースさん! 是非、ボクにもヴァン先生の記憶を――」
「お前には不要だ」
 期待に満ちた瞳を向けてくる少女に、白き魔はつれない言葉を返した。その後、顎に手を当てて少しばかり考え込み、淡紅(とき)色の瞳を細めた。人の子のしなやかな金髪をかき分けて耳元に小さな口を寄せた。
「代わりに想い出話をしてやろう。あれは確か……」
 しばらくセレネは小さき悪魔の言葉に耳を傾けていた。
 彼女たちの様子を瞳に映しつつ、シスター・マリア=アスビィルは口元を両手で抑えて大きく欠伸をした。いよいよ退屈の虫が騒ぎだしていた。痺れを切らして、戯れに町を破壊しださないとも限らなかった。
 しかし、紅魔が破壊活動に移るよりも前に、セレネの顔色が漸う変わった。彼女は俯いて、つかつかと大地に転がる瓦礫を避けながらルーヴァンスのもとへとやって来た。そして、彼の目の前でぱっと顔を上げた。
「ヴァン先生!」
「どうかしましたか、セレネくん?」
 アルマースに言われた通り、素直に神のことを忘れようと努力していたルーヴァンスは、鬼気迫る表情の少女を瞳に映して眉を潜めた。恐らくは彼女もまた、アルマースに助言めいたことをされたのだろうが、何故にルーヴァンスへと迫るのかが全く分からなかった。
 当のセレネは、紅眼にうっすらと涙を浮かべていた。
「あ、アルマースさんと一緒に毎日お風呂に入っていたというのは本当ですかッ!」
「は? えっと、まあ、そうですね。ある意味では」
 当時アルマースは、風呂時だろうと飯時だろうと頭の中に顕れて好き勝手に説教をしていた。一緒にお風呂に入っていたと言えなくもなかった。
 師の言葉を耳にした少女は顔色を青くし、より顕著に涙を溜めた。
「ででで、ではッ! 朝はおはようのチューをして夜もおやすみのチューをしていたというのは――」
「ぶッ!」
 今度こそ事実無根な過去だった。そも、ルーヴァンスとアルマースはそのような甘い関係では無かった。
 訂正の為にルーヴァンスが口を開いた、その時――
 しゅッ!
 中空を漂っていた白髪の悪魔の姿が露と消え去り、セレネの紅き瞳に冷静さが戻った。彼女は右手を何度か握ってから、小さく笑った。
「ふむ。約さずとも動かし易いな。セレネはお前よりもサタニテイル術士に向いていそうだな、ルーヴァンス」
 薄ら笑いを浮かべつつ、セレネ=アルマースがルーヴァンスの右頬を撫ぜて、言った。
「まったく…… 真面目なセレネくんを怒らせて主導権を取るなどと、相変わらず無茶をしますね、アルマース。まあ、セレネくんを戦わせるよりは貴女が前面に出た方が安全でしょうが……」
 相対する人の子は、小さくため息をついた。
 憤怒や嫉妬など、比較的負の側面が強い感情を抱いた人間を、悪魔は御しやすい。此度もまた、感情を乱した人間(セレネ)を悪魔(アルマース)が支配したのだった。
(……今回の場合、憤怒というよりは嫉妬だがな。まさかこやつ、気付いていないのか)
 悪魔は内心で呆れつつも、這入りこんだ身体を伸ばして具合を試した。違和感なく操れることを確認し、金の髪をばさりと払った。そして、彼女は紅き瞳をシスター・マリア=アスビィルへと向けた。
 紅魔もまた墓標から腰を上げ、腕や脚を伸ばして戦いに備えていた。紅玉を細めて、玩具遊びを控えた幼子のように無邪気な笑みを浮かべていた。
「準備は整ったか? 数年は待ちぼうけた気分ぞえ。その分、楽しませて呉れるのじゃろうな?」
「現状出来ることはやった。待たせて済まなかったな」
 そのように応じた魔の者の表情は硬かった。言葉通り、彼女達が今出来ることは全てやった。しかし、それでも、未だに紅魔の力には遠く及ばないのが実情だった。
(ルーヴァンスと精霊の術がどれだけ威力を増したかが鍵だな……)
 セレネ=アルマースはシスター・マリア=アスビィルとの会話の合間に、視線を人の子と精霊へ向けた。
 憐れな者らが大地を踏みしめ、二本の足で佇んでいた。