八章:予定調和
〜精霊と子と〜

 ティアリスが、ゆっくりとした足取りで、ルーヴァンスの隣へと向かった。同時に彼女は、口の中で何事か呟いていた。伴って、その手元が光り輝き、小さな麻袋が顕れた。それは、ルーヴァンスのロケットペンダントが収まっている袋だった。
 ティアリスはその袋の中からペンダントを取り出して首にかけ、黒髪をペンダントの鎖から出すように両手で払いのけた。長く艶やかな御髪が天上の紅を受けて鈍く照っていた。
 女児は小さく息をついてから、腰に手を当て、人の子を睥睨した。
「ヴァン。ワタシが渡した髪飾りはどうしたです?」
「アレでしたら常に懐に入れていますよ。何時でもティアの温もりを感じられるように……」
 ぞわぞわッ。
 精霊さまの細くしなやかな白き腕を、寒気が駆け抜けた。目視できる程にはっきりと、鳥肌が立った。
 しかし彼女は、平生のように暴力に訴えることをしなかった。
(が、我慢ですよ、我慢。色々あったせいでこんなクソ野郎になっちまったと考えれば、ちょっとは赦せるような気がし無くも無くも無くも無かっら良いなって思わったりもするです。万が一にもそう思い込むことが出来れば勿怪の幸い、棚から牡丹餅です。ああ、そうです。此奴と上手く折り合いをつけてあのクソ悪魔をぶっ飛ばしたら、セレネの部屋にあった動物の図鑑を持って帰るです。そのくらいのご褒美があってもいいはずですよ、うん)
 必死で心を落ち着け、精霊さまはお顔に引きつった笑みを浮かべられた。
「そ、その髪飾りはですね。姉妹みてーな関係の奴から貰ったもんなのです」
 ティアリスは、遠い目をして過去を想起し、嘲るように鼻で嗤った。
「なんつーか、前にも言いましたがソレ、全然気に入っていねーんですよ。細工も何もかも、ワタシじゃ無くて奴の趣味ですし、奴にはプレゼントをする才能が著しく欠如していやがります」
 半月ほど前、ティアリスへ精霊王の命が下り、彼女が人界へと赴くこととなったその日、くだんの精霊は金色の瞳に涙を浮かべていた。彼女は、時には姉のように世話を焼き、時には妹のように泣き喚く。
 ティアリスは、別れ際の銀髪金眼の精霊を思い出し、苦笑した。
「けどまあ、一応、ひょっとすれば、万が一、これでも、何と言いやがりますか――大事にしてはいるわけですよ」
 肩を竦めてそう口にした時、彼女の苦々しい笑みは真の輝きを持っていた。くだんの相手に、確かに心を許しているという証左だった。
 ティアリスは、銀髪金眼の精霊に妹として扱われていた。彼女はそれが疎ましく、自分こそが姉だと自負していた。けれど、その実、少しばかりではあったが、嬉しくもあった。
「奴は口煩くて、ウザくて、一旦死んだ方がいいクソアマで、ワタシのことにかまけて無茶ばかりする阿呆で、ワタシと同じトリニテイル術士で、いつも心配してくれていて、色々と恩が有って……」
 少しばかり頬を紅く染め、空色の瞳を伏せて、ティアリスが語った。
 彼女にとって、髪飾りの送り主について真面目に語ることは、とてつもなく照れ臭いことのようであった。
「それを渡したのですから…… だから……」
 ルーヴァンスは俯く女児を瞳に入れて、思わず右手を上げた。その手で、艶やかな黒髪に軽く触れ、優しく撫でた。
「ありがとうございます、ティア」
「……な、何の礼だかよくわかんねーです! つーか、触んなです! うっぜーです!」
 パシッ!
 人の子の手が払いのけられた。
 心の距離が縮まったかと思った矢先の暴言だった。しかし、ルーヴァンスにとっては、アメだろうとムチだろうと喜ばしいことのようで、別段、彼らの関係性に新たな亀裂が生じるということも無かった。
 寧ろ、ティアリスに歩み寄りの姿勢が少しであっても生じたことこそ、大きな一歩であり、絶大なる希望であった。
(ひと先ずは期待するか……)
 セレネ=アルマースは苦笑を浮かべ、魔界から人界へと力を顕現させた。闘いへと向けて、可能な限りの力を召した。
 一方、シスター・マリア=アスビィルが墓標の前で、嗤った。
「良いぞ。先手は呉れて遣ろう。来るがよい、弱き者共よ」
「それでは、遠慮なくいかせてもらうぞ」
 セレネ=アルマースが、右手をシスター・マリア=アスビィルへと向けた。魔は紅眼に力を込め、人の子を経由して、魔界から闇の力を人界へと顕現せしめた。
 悠然と佇む紅魔の身を、白魔の生み出した闇が覆い――
 どおぉんッッ!!
 弾けた。
 神魔の闘いが再び始まる合図だった。