八章:予定調和
〜紅魔と白魔〜

 天上の血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)を受けて、爆煙が紅く染まっていた。その紅色の煙の中から、黒と紅に彩られた魔が飛び出した。
「黒月刀(こくげつとう)……」
 シスター・マリア=アスビィルは口元を繊月のように歪め、右の手に闇色の三日月刀を生み出した。
 歪んだ口元と同様に、欠けた月のような黒き刀を携え、紅魔がセレネ=アルマースへと迫った。
「神刀(イルハーズ・ブレイド)!」
 しかし、彼女たちが重なるよりも前に、ルーヴァンスが光の刃を手に魔の攻勢を削いだ。
「ほぉ。先よりも強い光じゃの。良いぞ良いぞ、褒めてやろう」
 無邪気な笑顔を浮かべて、シスター・マリア=アスビィルが、賛辞の言葉を人の子へ下賜した。
「……恐悦至極ですね。それでは、ご褒美に魔界へお帰り頂けませんか?」
 余裕のあるシスター・マリア=アスビィルに対して、ルーヴァンスは歯を食いしばりながら、苦しそうに言の葉を吐き出した。腕力の差ではなく、神と魔の力の大小が、光の刃と闇の刃のせめぎ合いに優劣を与えているようだった。
 紅魔は愉しそうに声を立てて嗤い、刃を振り上げた。
「ふふ。それはウチが詰まらん故に、不可じゃ!」
「ッ! はあッ!」
 闇の刃が振り下ろされるよりも前に、ルーヴァンスが光刃を突き出した。光は紅魔の胸に吸い込まれ――
 ずさッ!
 ルーヴァンスは直ぐに刃を手放して大きく後退った。伴って、すぅっと神の刃が消え去った。
 一方で、闇の刃は、最前までルーヴァンスが居た場所を勢いよく通り抜け、そのままの勢いで大地を穿った。
「おや? 避けよったか。流石に争いばかりしておる人界の者よの。慣れておるわ」
 感心した様子のシスター・マリア=アスビィルの胸からは赤黒い液体が、ぽたりぽたりと滴り落ちていた。傷口からは内臓と肉が覗いていた。
 しかし、痛々しい裂傷は瞬時に消え去った。
(……ちっ。傷や痛みを無視して攻撃して来るとなると厄介だな)
 歯ぎしりをして内心で弱音を吐きつつも、ルーヴァンスは再度、両の手に光刃を生み出した。
 彼は離れていた紅魔との距離を寸時で詰め、左の刃を垂直に振った。
 すぱんっと小気味のいい音が響き、シスター・マリア=アスビィルの右手が闇の刃と共に宙を舞った。
「お」
 狐につままれたような顔で、紅魔は人の子と飛んだ右手を交互に見た。
 その間に、ルーヴァンスが身体を回転させて、右の刃を水平に薙いだ。刃はやはり肉を裂き、紅魔が身にまとった漆黒の衣服に切れ目を入れた。
 ずるりと、シスター・マリア=アスビィルの上半身と下半身が、ズレた。
 そこへ、白き光と黒き光が迫った。ティアリスの精霊術とセレネ=アルマースの魔術だった。
 ルーヴァンスは手の中の光刃を消して大きく跳び、大地に伏せた。
 どんッッ!!
 再び、爆発に伴って土煙が舞い踊った。
「第二精霊術『天翼(てんよく)』!」
 ティアリスが声高に、飛行の為の術を行使した。背に白き翼を生み出し、大地に沿って飛行した。そのままルーヴァンスの元へと至り、彼の後ろ襟を引っ掴んで上昇し、土煙の真上へと達した。
「ヴァン!」
 精霊さまは、人の子を一旦天へと放り投げた。そうしてから直ぐに、彼の腰を、細く白い腕で掴んだ。有体に言えば、ルーヴァンスを持ち替えた。
 軽い首絞めの後に天へと放り出されたルーヴァンスは、しかし動揺することもなく、ティアリスの声掛けに正確に反応した。
 神界から精霊へ。精霊から人の子へ。神の力がそのようにして流れた。
 神力の終点であるルーヴァンスは、賜った力を術へと変換し――
「神閃(イルハーズ・スパーク)!」
 解き放った。
 白く輝く閃光が、人の町に溢れる紅き光を駆逐した。一帯は白へと染まり、白光は未だ土煙が漂う大地に突き刺さった。
 どおぉんッッ!!
 今まで以上に激しい土煙が上がった。
 次いで、人界には静寂が訪れた。
「……やったのでしょうか?」
「不本意ながら、トリニテイル術の威力も上がっていたですし、あれなら――」
 ひゅッ!
 突然のことだった。会話の途中で空気を引き裂く鋭い音が響き、紅闇が天上へと放たれた。瞬く間に、闇が人の子と精霊を襲った。
 紅色の闇が、時を隔てずして人界の希望を貫こうとした、その時――
 ばさッ!
 ルーヴァンスとティアリスの眼前に、黒き翼が広がった。
 セレネ=アルマースが、いつの間にやら、魔弾の放射上に移動していた。彼女が両の腕を突き出すと、迫り来た闇色の砲撃がすぅと静かに消え去った。技をもって闇を分解、吸収したのだ。
「油断するな! 完全に力を出せぬとはいえ、アスビィルがあの程度で滅びるか!」
 セレネの声音でアルマースが叱咤した。
 彼女の言葉通り、晴れた土煙の中には、未だにシスター・マリア=アスビィルの姿が在った。正確には『シスター・マリア=アスビィルだったモノ』とでも称するのが良いだろうか。彼女の右手は千切れていた。左半身は潰れていた。両脚は折れていた。しかし、彼女は嗤っていた。
『ふふ。甚(いた)いのぉ。身体がぐちゃぐちゃじゃ』
 既にシスター・マリアの肺や声帯がまともに機能していないのだろう。アスビィルが魔界から声だけを響かせた。
 人と精霊と魔と肉片と、それぞれの視線が絡み――
 ばさッ! ひゅッ!
 先ずは、セレネ=アルマースが動いた。最早、身体を動かすことすら難しいだろう紅魔の姿を瞳に入れ、好機とみたのだろう。黒翼を羽ばたかせて、ルーヴァンス達とシスター・マリア=アスビィルを結ぶ線上を翔けた。傷だらけの悪魔に暇(いとま)を与えず、闘いを一気に終わらせる心積もりのようだった。
 ルーヴァンスとティアリスもまた、急ぎ、神の力を人界へ引き込んだ。こちらは、特に動かなかった。紅魔の放つ闇を、セレネ=アルマースが防ぐと信じ、再度強力な閃光を放つことだけに集中した。
 そして、肉片(アスビィル)は――
 しゅッ!
 ギリギリで人の形を保っている肉片の集合体は、唐突にその場から掻き消えた。
 そして、一瞬の間すら無く――
「ッ! 第一精霊術『煌々壁(こうこうへき)』!」
 どんッ!
 横手から黒弾が迫って、ルーヴァンスとティアリスを襲った。ティアリスが奇跡的な反応をみせ、直前で守りの精霊術を行使したが、その術では完全に防ぎきれ無かった。
 あえなく天上の二者は大地へと堕ちた。
『油断するなと、アルマースに忠告されたばかりじゃろうに。ウチがもう動けぬと、錯誤でもしたかのぉ』
 紅き血を滴らせた『シスター・マリアだったモノ』が言った。
 黒き翼の生えた肉が、天上を漂っていた。ソレは、ばさり、ばさりと、ゆっくり羽ばたいていたが、その移動速度は最高で、光のそれに匹敵するだろうことが、大地から一瞬でその場に至ったことからも予想できた。
 ソレは、未だ動く首だけを動かして、ぎこちなく身体を見渡した。損傷した遺体(シスター・マリア)を瞳に映して、壊れた玩具を見るかのように眉を潜めた。
『ふむ。実害は無いとはいえ、流石に、この姿はアレじゃな』
 肉片(アスビィル)が独りごち、そして、一瞬の後――
 すぅ。
 物音すら立てずに、シスター・マリア=アスビィルへと戻った。
 千切れた右手が生え、潰れた左半身はふくよかでしなやかに変じ、折れた両脚は脳からのシナプスを正しく処理できるように成った。衣服だけは千切れたまま、白き柔肌を外界に晒していた。
「さて、こんなところじゃろうか。若い女子(おなご)が、この様に肌を露わにするのも如何なものかといった所じゃが、衣服の復元はやったことが無いしのぅ。その内に、研鑽を積んでおくとするか……」
 破れた黒色の衣から覗く白い肌を紅色の瞳に映し、シスター・マリア=アスビィルが未来を口にした。此処で終焉を迎える気など全く無いようだった。
 しかしそれは、人の子も、精霊も、人界もまた同様だった。命も世界も何時かは終る。それでも、それは今では無い。彼らはそう信じたがゆえに、痛みを押して立ち上がった。
「……くっ」
 ルーヴァンス、ティアリス共に、身体中に鈍痛が走っていた。大地に堕ちる直前、ティアリスが白翼を羽ばたかせて勢いを殺したが、それでも無傷とはいかなかったようだ。
「……ヴァン。まだやれるですね?」
「……ええ。勿論ですよ、ティア」
 二者は、先頃に彼らが放った閃光によって、大きく窪んだ大地の底に佇む紅魔を、勇猛果敢に睨みつけたが、その黄金色と空色の瞳には微かに暗い影が宿っていた。
 大地を穿つ威力を持った一撃は、人形(シスター・マリア)を肉片(アスビィル)と化した。しかし、肉片(アスビィル)は人形(シスター・マリア)へと容易に復元した。彼女の損壊が無意味なものでしか無いのならば、神の代行者達に勝機など欠片も存在しないことになってしまう。
 彼らのそのような思考は、彼らの肉体へも影響を与えた。
 ルーヴァンスとティアリスは、その身体を駆け抜ける痛みに表情を歪め、足を止め、魔へと立ち向かう勇敢な心にも影が差した。
 その惑いこそが絶望への架け橋だった。
「さあ、ウチの番じゃ」
 人界を護る者達が動かぬのを見て取って、シスター・マリア=アスビィルが詰まらなそうに嘆息した。彼女は退屈を押しのけるように宣告し、腕を掲げた。
 その先には――セレネ=アルマースが居た。
「セレネくん!」
「セレネ!」
 その刹那、人の子と精霊の顔に迷いは無くなった。代わりに焦りと絶望が満ちた。
 ルーヴァンスの背には黒翼が、ティアリスの背には白翼が生じた。それぞれ、簡易的なサタニテイル術と、精霊術の結果だった。彼らは羽ばたき、紅魔との距離を詰める。
 紅魔は彼らに時間を与えることなく、白い腕に黒い光を集めた。
「干渉のみのお前に処理できるかのう? アルマースよ」
 頑是ない笑みを浮かべたシスター・マリア=アスビィルの呼びかけを受けて、セレネ=アルマースの顔に緊張が走った。その表情の変化こそが彼女の応えだった。
 セレネ=アルマースの処理能力には限界が有った。名も無き悪魔が相手ならばともかく、圧倒的な力を誇るシスター・マリア=アスビィルが本気を出したなら、技巧で誤魔化せられるわけが無かった。
「……空虚な闇(ヴォイド・ダークネス)……」
 静かに、白くしなやかな腕から絶望の黒が放たれた。
 黒は寸の間も与えずに、白き魔の元へと至った。そして、別段の物音を立てることも無く、あっさりと白魔を呑み込んだ。
 その漆黒が消え去った時、そこに魔の者――セレネ=アルマースの姿は無かった。