九章:紅闇と白光の輪舞
〜紅き支配〜

 風が吹いていた。北から南へと、緩やかに緩やかに、紅い風が吹いていた。
 そして、場に蔓延る弛緩した時間は、その紅風と共に過ぎ去っていった。
「ぐああああああああああああああぁあああッッ!!」
 絶望に染まった人の子が、叫んだ。叫びは魔を支配し、魔を力へと転じた。
 ルーヴァンス=グレイの手には漆黒の刃が生じた。黒刃を手に、黒翼を背に、黒に染まった人の子が、翔けた。
 その向かう先に居る紅の魔は、口の端を上げ、ヴンと小さな音を立てて、やはり、黒き刃を生み出した。
 ギィン!
 黒と黒がせめぎ合った。
 ルーヴァンス=グレイの手に有る黒が、シスター・マリア=アスビィルの手に収まる黒を、圧倒した。
 同じ魔の者から生じた黒き力には、しかし、明確な優劣が産まれていた。
(ウチの力が再び『魔の上に立つモノ(ドミナトゥル)』に奪われておる…… その上、此度は……)
 紅魔の口元が、繊月のように歪んだ。
 彼女の表情の変化には頓着せず、それどころか、彼女の姿を金の瞳に映すことすらせず、ルーヴァンスは黒刃を振るい続けた。
 ギィン! ギィン! ギイィン!!
 ひときわ大きな音が響き、シスター・マリア=アスビィルの手に収まっていた黒き刃が、回転しながら宙を舞った。そして、漸う消え去った。
 ルーヴァンスは虚ろな紅の瞳で、紅色の魔を見つめ、怒りや哀しみ、人界に満ちるあらゆる絶望の想いに支配されるがままに、黒を携えた右の腕を振り下ろした。
「ヴァン!」
 どがっ!
 横手からの体当たりが、ルーヴァンスの身体を倒した。小さな身体が左の腕にしがみつき、ぬばたまの髪を振り乱して顔を埋めていた。
 ティアリスが顔を上げ、空色の瞳に、魔に染まろうとしている人の子の姿を映した。
「放せよ……」
「てめーがそのままクソ悪魔を殺すっつーんなら文句はねーです! けど――」
「ふふ」
 ティアリスの言葉を耳に入れ、シスター・マリア=アスビィルが、小さく笑った。彼女の瞳は、再び淡紅(とき)へと変化していた。
 一方で、ルーヴァンス=グレイの瞳が、真紅へと変じていた。
「てめーのソレは! 『支配している』のではなく『支配されている』のではないのですか!?」
「!」
 真紅の瞳を携えた人間が、驚愕に表情を歪めた。
 アスビィルは、パドル=マイクロフトの意識を、思想を、少なからず支配していた。ゆえに、彼の心のたがは外れ、希望を願い、絶望を振りまいた。
 しかし、『魔の上に立つモノ(ドミナトゥル)』という二つ名を賜るに至ったルーヴァンス=グレイについては、パドルの様にはいかなかった。彼は魔への耐性が強く、魔に支配されず、逆に支配することが出来た。相手がどのように強力な存在だったとしても、容易に支配を受けつけない筈だった。
 その論理が壊れるのは、ルーヴァンスの心が黒く染まった時だった。怒りや哀しみ、嘆き、一切の絶望が、彼の心に満ちた時、魔の支配が彼を捕捉した。
 リストールの町を覆った血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)を媒介として、紅魔はより良き傀儡(とも)を求めた。
「……ティア……でも……奴はセレネくんを……僕は……俺は……力が必要で……殺さなきゃ……奴を……この手で……この力で……また……世界を……救わなきゃ……」
 紅玉を見開いた人の子は、口から零れる言葉とは裏腹に、縋りついてきた精霊へと黒き刃を向けた。
 紅魔――ルーヴァンス=アスビィルが、嗤った。
「ふむ。この身体ならば、人界へとウチの力を更に引き込めよう。良い拾い物じゃ」
 ルーヴァンスの口から、ルーヴァンスの声で、アスビィルの言葉が漏れた。
 ティアリスは紅魔に気圧され、大きく後ろに跳び、ルーヴァンス=アスビィルから距離を取った。
(ちぃ…… これでもうトリニテイル術が使えねーです。しかも、クソ悪魔の言葉が真実なら、さっきまでよりもクソ悪魔の力が強くなるということですか…… まっじぃですね……)
 頬にひと筋の汗を垂らし、精霊が顔を顰めた。
 ただでさえ微弱だった希望の光が、いよいよその輝きを潜めようとしていた。