九章:紅闇と白光の輪舞
〜微かな光明〜

 天を彩る紅き六芒星(ヘキサグラム)が、精霊を、悪魔を、照らし出していた。一方は渋面を携え、他方は喜色を浮かべていた。
 ルーヴァンス=アスビィルは、遺体(シスター・マリア)を紅の瞳に入れ、口元を繊月の如く歪めた。憐れな神の僕を嘲笑った。
「ふふ。アレにも世話になったのぅ。せめて、綺麗に消しておくとするか……」
 独りごちて、紅魔が右手を徐(おもむろ)に上げた。アスビィルは魔界から力を召して、人の腕に、紅を帯びた黒を集わせた。ルーヴァンスの口がすぅと息を吸い、術を放とうとした――その時だった。
「ぐっ!」
 ルーヴァンス=アスビィルが眉を潜め、呻いた。彼女の真紅の瞳が、時折、黄金や淡紅(とき)へと移ろいだ。
「……あ、アルマース! 邪魔を――」
「悪いな、アスビィル。此奴との付き合いは、私の方が長い。お前を押しのけて身体を奪うことなど、容易いよ」
 ルーヴァンスの口からは二者の言葉が発せられた。共にエグリグルの悪魔の、一つはアスビィル、一つはアルマースのものだった。
 ルーヴァンス=アルマースが、視線を再び遺体(シスター・マリア)へ向けると、ゆっくりと、悪魔(シスター・マリア=アスビィル)が起き上がった。紅き瞳には険が宿っていた。
「そう睨むな、アスビィル。此奴の身体は、確かに力を振るい易いが、時と場合によっては、逆に支配されるぞ。いくらお前とはいえ、な。故に、此奴は『魔の上に立つモノ(ドミナトゥル)』なのだ」
「……ふん。今ならば問題ないはずじゃ。其の男は絶望に囚われおった。ウチの支配を撥ね退けられる程の余裕などあるまい」
 事実、ルーヴァンス=グレイは、アスビィルの支配を容易く受けた。セレネ=アントニウスの消失に依って。
 彼女の死は、もはや覆せない。なれば、ルーヴァンス=グレイの絶望もまた、もはや晴れることは無い――筈だった。
「白々しい。お前も判っているだろう、アスビィル。セレネは死んでいない」
「! 本当でいやがるですか!?」
 ティアリスが、空色の瞳に微かな希望を宿し、ルーヴァンス=アルマースとの距離を詰めた。
 ぽんっ。
 ルーヴァンスとティアリスの間に、小さな影が生じた。白い髪と紅い瞳、真紅のドレス。先と同様、アルマースがただの魔として、人界に顕れたのだった。
 伴って、ルーヴァンスの身体は、彼自身の意思を拠所とするに至った。夢より覚めたかのように空ろな思考の中、人の子は銀の髪を揺らして、数度、頭を振った。
「……アルマース」
「ルーヴァンスよ。そして、精霊よ。セレネは、死んでいない」
 紅の瞳が、金の瞳と青の瞳を、順繰りに覗き込んだ。
 ルーヴァンスにも、ティアリスにも、いまだ猜疑の影が有った。けれど、彼らの瞳には、希望へと繋がる一抹の光もまた、差していた。
「アスビィルの術を受ける直前、私は魔術で、マルクァス共がたむろしている港へと移動した。セレネは、私がしばし身体を借りていた影響で意識を失っているが、別段、怪我も精神的な汚染も無い。時が経てば、壮健な様子を拝めるだろう」
「……本当……ですか……?」
 金の瞳を瞠って、ルーヴァンスは、その希望にすがるように、尋ねた。
 ティアリスもまた、彼の隣で、空色の瞳に真摯の色を乗せ、アルマースを見つめていた。
「本当だ」
 単純なひとことだった。悪魔は、一切の言葉を重ねようとはしなかった。
 飾らぬが故に、ルーヴァンスもティアリスも、アルマースの言葉を信じられる気がした。
 金と空の色をした瞳らに、漸う、輝きが満ち満ちた。
 しかし、アルマースは背の黒翼を羽ばたかせて、ふよふよと中空を漂いながら、眉を潜めた。
「とはいえ、悪い知らせも有る」
『……』
 再び、ルーヴァンスとティアリスの表情に、落胆の色が生まれた。
「セレネのことは、先に言った通りだ。心配など要らん。悪いのは――戦況だ。私はもう、参戦できん。セレネを運ぶ術で、人界への干渉限度を超えた。正式に約さんことには、二、三日は人界へ赴くことも不可能だろう」
 その言葉を証明するかのように、彼女の瞳が真紅から淡紅(とき)へと変化していた。姿自体も薄らぎ、背後の風景が透けて見え始めた。
「では、やはり僕と契約を――」
「駄目だ。今のでも分かっただろう。お前は、魔に染まり易い。その道は行くな」
 魔と共に邁進しても、未来(さき)が無い。向かった未来(さき)は、更に強大な魔からの支配でしかない。
 悪魔(アルマース)は人(ルーヴァンス)を慮り、共に行くことを拒んだ。
 ルーヴァンス=グレイはかつて、魔(あくま)を超えた魔(せいしん)で相手を支配していた。様々な悪魔を屈服させ、時に下級の悪魔を、時に『エグリグル』並の上級の悪魔を、サタニテイル術士として支配下に置いた。
 しかし、人とは不安定なものだ。支えを失うことで容易に心を乱し、精神が瓦解して、魔に屈服してしまう。そして、そのまま人として終わってしまう。パドル=マイクロトフのように。先程のルーヴァンス=グレイのように。
「精霊よ。お前が、ルーヴァンスをあまり好いていないのも、事実、今の此奴が、不愉快極まりないのも分かる。だが、悪い奴では無い。すまないが、ヨロシク頼む」
「何を勝手な――ちっ。消えやがったです」
 ティアリスの言葉通り、白魔(アルマース)は音も無く消え去った。人界への干渉が限界を迎えたのだろう。
 あとには、紅色の空と、荒廃した大地と、真紅の瞳の悪魔と、疲弊した人の子と精霊が残された。