九章:紅闇と白光の輪舞
〜希みの棄却〜

 ルーヴァンスとティアリスの視線の先には、不満げに唇を尖らせているシスター・マリア=アスビィルが居た。彼女は、遺体(シスター・マリア)の双眸に在る真紅の瞳で、人の子を睨み、遠く魔界の地に在る本来の紅玉で、アルマースの住まう地を睨めつけた。
 アスビィルにとって、彼らが取り戻した光は、愚かさの極みでしかなかった。
(……ちっ。興が削がれおったわ)
 シスター・マリア=アスビィルが、腰に手を当てて、人界と魔界を睥睨している中、人界の希望たちは、声を潜めて言葉を交わす。
「……白クソ悪魔に言われたからじゃねーですが、あの超絶クソ紅アマをぶっ飛ばすまでの間は、ヨロシクしてやるです。感謝しやがれですよ」
「……僕もしばらくは、ティアへの迸(ほとばし)る愛を抑えるよう、努力します。どうも、ソレがいけないようだと、アルマースが言っていましたので」
「……言われなきゃわかんねーとか、マジどーしょーもねーですね、てめーは」
 コソコソと小声で言い合う二者は、視線を紅魔から決して外さなかった。外したが最後、圧倒的な力を放たれて、終焉を迎えてしまいかねなかったがためだ。トリニテイル術の威力が多少改善されようが、それ程の力量差が未だに有ると、彼らは鋭敏に感じていた。
「……正直なとこ、この場を収められるやがるですか?」
 精霊さまが、人の子に尋ねた。元サタニテイル術士の見解に、希望を求めた。
 ルーヴァンス=グレイは苦々しく笑み、しかし、小さく頷いた。
「……先程、アスビィルの力を身に入れて分かりましたが、彼女も消耗しています。現状の血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)では、力を人界へ迎えるのにも、限界があるのでしょう。マリアさんのご遺体の損傷を復元するような芸当も、数度が限度かと思います」
 残念ながら、希望は本当に微かなものでしかなかった。今の彼らに、シスター・マリア=アスビィルの身体を幾度も損壊させるだけの戦力は、ない。
 ティアリスは、空色の瞳に影を宿し、嘆息した。
「……そんなに何度も付き合ってらんねーですよ。そもそも、奴の攻撃を防いでいやがったクソ悪魔がいなくなったっつーのに、そう長く保ちやがるわけねーでしょう」
「……ごもっとも」
 人の子から、再度の苦笑が漏れ出た。魔界へ戻った悪魔の言い分も分かるが、今日のところは例外として契約を交わすべきだったのではないかと、内心では考えている表情だった。
「おい。アルマースが去って、不利となったじゃろうし、サァビスで時間を与えてやっておるが…… 待つにも限界があるぞえ。ウチは退屈じゃ。早うせい」
 彼らのやり取りを遠目に眺めていた紅魔(シスター・マリア=アスビィル)が、痺れを切らした様子で肩を竦めた。
 苛立ちから、今にも強力な魔術を放ちそうな紅色の悪魔へと向け、ルーヴァンスが柔らかく微笑んだ。
「ご厚意いたみいります、アスビィル。申し訳ございませんが、もうしばし、時を下さい」
「厚顔な奴じゃな。まあ良い。せいぜい余生を楽しめ。ウチはもう、お前を見限った。もっとウチらに性質の近いモノかと考えておったが、そこな精霊や神に毒されおったようじゃ。愚かな人界の者らしく、瞳にも心にも、唾棄すべき希望を宿しおって…… その身体を取って(いかして)おこうという気は、最早無い。故に、覚悟して立ち向かうが良いぞ、愚者よ」
「ええ。承知いたしました」
 ふわりとした笑みを悪魔へと向けて応え、一方で、ルーヴァンスは、直ぐに表情を引き締めて、隣の精霊を真剣な表情で見つめた。
「……ティア。アスビィルは既に、僕がサタニテイル術士として彼女の力を奪うことを、充分すぎる程に警戒しています。先のように、彼女の力を大きく減退させることは、もはや出来はしないと思って良いでしょう。……そして、長引けば不利だというのは、ティアのご認識の通りでしょう。アスビィルの攻撃はこちらの防御を超えています。長期戦で疲弊していくのは、間違いなくこちらです」
 神の力も精霊の力も、闘いが始まってから、紅魔の力に押され続けていた。ティアリスの力は、即時に増強できるものではない。なれば、魔を退ける可能性があるのは、神と精霊と人の子の絆を力の源流とする、トリニテイル術しかない。アルマースの介入で、ルーヴァンスとティアリスの精神的な距離が多少ながら近づき、絆の術の威力が上がってきているとはいえ、彼らと魔の力量差が劇的に改善されているかというと、疑問が残るところだった。
「……加えて、アスビィルは、損傷させたとしても復元してしまいます。先にも申し上げました通り、その復元にも限度があるでしょうが、今の僕たちの戦力では、その限界まで彼女を傷つけることは能わない。マリアさんの遺体(ばいたい)が有り続ける以上、アスビィルもまた人界に有り続けてしまいます。これでは、決して彼女を退けられません」
「……なら、結局のところどうするです? このまま町ごと滅びるですか?」
 非難するように、ティアリスが言った。彼女は、ここで諦めてしまうことを、是としていないようだった。
 そしてそれは、ルーヴァンスもまた同様だった。みたび苦笑を顔に浮かべて、彼は、大きく息を吸った。
「……すべきことはシンプルです。紅魔(アスビィル)が力を宿すための媒体(マリアさん)を、完全に消し去ります」
「……………」
 彼らには、その言葉を実現するに足る実力も戦力も、無いと言って良い。
 仮に力が足りたとて、人界の絶望に絡め取られた女性の屍を灰塵と帰すなどと、心が痛い。せめてもの手向けとして、絶望を迎えた遺体(さいご)くらいは、希望(きれい)であって欲しい。
 人の子は胸を押さえて、吸った息を吐いた。深く深く、吐き出した。そうして、乱れる心を無理矢理、落ち着けた。
 他に道が有るのならば、そちらへ進むだろう。しかし、弱き人の子に出来ることは、多くは無かった。
 憐れな女の最期に希望を添えることは、決してもう、出来なかった。
「……イルハードの力を喚び込んでください、ティア」
「……わかったです」
 ティアリスは、ルーヴァンスの腰に右手を当て、胸のペンダントを左手で握り、神界からありったけの力を引き込んだ。神々しい光が溢れ出た。
 そして、神と子と精霊の御名において、人界へと白き光が満ち満ちた。