九章:紅闇と白光の輪舞
〜虚構の白光〜

 轟音が辺りを満たした。人の子と精霊の居る場所が爆発したのだ。炎が立ち上ることは決して無く、ただただ、土煙だけが一帯を包んだ。
 そのことに一番驚愕したのは、シスター・マリア=アスビィルだった。眉を潜めて、爆風を受けていた。金の髪と漆黒の衣服が、風を受けて、無造作にたなびいていた。
 先の爆発は、彼女の手によるものではなかったのだ。
(ウチ以外の悪魔か? ウチが気配を察せぬということは『エグリグル(ウチら)』の…… イェークかえ? ガデュールかえ? まさか、カサデラではあるまいの?)
 人界に顕現してから最も警戒した様子で、紅魔が慎重に辺りを窺った。しかし、どんなに注意深く気配を読んだところで、新たなる魔の気を感知することは出来なかった。
 一方で、土煙の中から、神の気配が一層強く、感ぜられるようになった。
「……ふむ。成程のぅ。単純じゃな」
 失望の色を隠すこともなく、シスター・マリア=アスビィルが嘆息した。紅き瞳を伏すと、輝きの鈍った金の髪がふさりと、泥と血で汚れた額にかかった。風に舞う土埃が、そして何より、彼女に満ちた魔の力が、鮮やかだった髪と白くきめ細やかだった肌を穢していた。
 強き力を有した魔は、耐え切れずに傷み始めた自身(シスター・マリア)を一瞥し、それから、土煙に隠れた愚者たちを眺めて、肩を竦めた。
(土煙は目くらまし、か。そこからの奇襲とは、あまりにもお粗末じゃな…… 偽装(フェイク)じゃろうか? しかし、あちらから感ずるのは間違いなく神の力じゃ。アレは偽りようが無い)
 視界を遮る土煙の中で、神力がどんどんと高まっていった。ついには、暮れ始めた西の空に、今再び輝かしい光を与えんと、白を発し始めた。
 シスター・マリア=アスビィルは、そちらへ充分な警戒の瞳を向けつつも、澄み渡る上空に、静寂が溢れる地底に、荒地にも似た地上に、リストールの町を構成する方々(ほうぼう)に注意を払い続けた。
(やはり、神の力はあそこへ集結しておる…… 奴らは本気で、アレでウチの隙をつけると考えておるのか……? 仮にも、『魔の上に立つモノ(ドミナトゥル)』とまで謳われた人の子と、トリニテイル術士として人界へ遣わされた精霊じゃぞ……)
 紅魔の疑念は、とどまることを知らなかった。
 シスター・マリア=アスビィルの力は、アスビィルとして不完全であるとはいえ、間違い無く、ルーヴァンスとティアリスを圧倒し続けていた。人界で、今の彼女と渡り合える者は、数名といったところだろう。
 しかし、彼ら――人の子と精霊は、外的要因や幸運が多くを占め、悪魔自身が多大な恩赦を与えていたという事情があったにせよ、幾度と無く危機を乗り越えてきた。生き延びてきた。
 故に、紅魔は彼らに対して、多少なりとも信頼を寄せていた。目くらましの後に特大の力を放つ等という、あまりにも馬鹿らしい討魔策を企てる筈が無い、と。
 勿論、そのような思考を巡らすよりも前に、遺体(シスター・マリア)へと雪(そそ)ぎ込まれたアスビィルの力を、極限まで高めて放てば、か弱き人の子も、誇り高き精霊も、一瞬で消し炭と化すことが出来ただろう。が、シスター・マリア=アスビィルは、決してそうはしなかった。
 彼女は、人界での殺し合い(たたかい)を、可能な限り楽しみたかった。それはともすれば、彼女の存在理由なのであった。
「……ん? はて。逃げるわけでは無さそうじゃが」
 風が動いた。土埃がもうもうと立ち込める中、一帯を漂う細かな粒子が、光を受けて輝いていた。その中を切るように流動する何かが在った。その何かは、シスター・マリア=アスビィルの後方を取るように、回り込んだ。
 しかし、神の力は、紅の視線が向かう先で、相も変わらず、高まり続けていった。魔を滅する為に、ひたむきに、光を欲し続けていた。密やかに移動する何某かから、アスビィルの視線の先で光を放ち続ける何某かへと、イルハード神の力が流れているのは、明らかだった。
 トリニテイル術では、精霊が神の力を神界から人界へと引き込み、人の子へと与える。そして、人界の住人たる人間が、受け取った力を術として構築する。そうであるならば、力の移動元がトリニテイル術士で精霊でもあるティアリス、力の移動先が人間であるルーヴァンスだということになる。
 以上の事実から類推するに、シスター・マリア=アスビィルの後方へと移動したのは、ティアリスだということになろう。一方で、ルーヴァンスは動かず、紅き視線の先で、イルハード神の力を術へと変換し続けているに違いない。そういった虚像が、紅魔の脳裏には浮かんだ。
 神の力を術へと変換する人の子。術へと備える紅魔。白翼を背に負った精霊。三者はその順番で、不明瞭な視界の中で、一列に並んだに違いない。理を詰めれば、そのように結しよう。
 しかし、確実性の無い視界は、その道理に微かな瑕を与えていた。
 紅魔は神や精霊、ひいては、トリニテイル術や精霊術にまで知識が明るいわけでは無かった。それ故に、神の力の流れが、それどころか、位置関係自体が、偽装されている可能性を完全に否定することまでは出来なかった。状況から組み立てた理は、条件によっては容易に瓦解するに相違なかった。
(ふむ…… ウチのこの惑いこそが狙い、か……)
 シスター・マリア=アスビィルは唇を歪めてニィと嗤った。
(精霊術かトリニテイル術によって、神の力の流れを偽装しているか。もしくは、光の屈折を偽り、位置関係の錯誤を生み出しているか。あるいは、今感じるままに、人も精霊もそこに在るか。可能性としてはそんなところかの…… わざわざ視界を不明瞭にしおったことからすると、最後の可能性がもっとも低いと考えるべきじゃろうが、理詰めの逆を突くとも考え得るの……)
 紅魔が思考を巡らす間にも、神の力は高まり続けていた。強力な一撃が用意されていることだけは、明瞭だった。
 理を説くなれば、神と子と精霊に敵対するモノ――悪魔は、考え込むよりも前に、迅速に神の使者達を邪魔すべきだった。今この時を待機して過ごさず、神の力が高まるよりも前に、人の子と精霊を制圧すべきだった。しかし、彼女はそうはしなかった。そうしない方が、彼女の嗜好に合致していた。
 戦いに勝つこと。人の子を屠ること。人界を滅ぼすこと。勝利も殺戮も滅亡も、紅魔にとって肝要だった。肝要だが、いずれも、達成するのが容易過ぎた。
 悪魔にとって、勝利や、殺戮や、滅亡は、快楽でもあった。そして、彼女にとって、容易に得られる快楽など、全く価値が無かった。
 それ故に、シスター・マリア=アスビィルは、戯れずには要られなかった。より強き快楽を得る為、劣勢を招くようであっても、戯れの時が必要だったのだ。
 紅魔が悠然と構えた。視線を前方へと向けたまま、いくつもある可能性を一つに絞った。
 彼女は、全てが偽装(ブラフ)であることに賭けた。他の可能性を全て捨て、危険が残るのを楽しむことにした。
「クソ悪魔。てめーは精霊術のことをどれだけ知っていやがるですか?」
 シスター・マリア=アスビィルの後方からティアリスの声が響いた。
 相変わらず姿は見えず、ただ、鈴のような声音だけが聞こえてきた。
「おや? 話をしてもいいのかえ? 土煙の意味が無いじゃろうに」
「はっ。視界だけじゃ無く、声の伝播も歪めていやがるかもしれねーですよ」
 馬鹿にしたようにそう口にしてから、ティアリスは、先と同じ問いをシスター・マリア=アスビィルへと投げかけた。
 紅魔は、微かな警戒心を抱いたままで、前方の光から視線を外さずに応じた。
「精霊術などという愚術、よく知らぬの。ウチにとって、精霊など、戯れるにも値せぬのが通例じゃ。大概は即時殺すが故、お前らの術を目にする機会も、極端に少ない」
 過去において、彼女が相対した精霊は、無数に居た。しかし、そのいずれも、トリニテイル術を扱っている様子しか、印象に残っていなかった。精霊術は、白翼を生むものや、光弾を生むものなど、主要なものしか覚えが無かった。
 しかし、是非も無かった。間違い無く、どうでも良いことだった。
「それがどうかしたのかえ?」
 悪魔のその問いは、土煙で隠れた精霊さまの顔に、笑みを生んだ。
「成程。僥倖でいやがります」
「?」
 背後から聞こえてくるソプラノの声音を耳に入れ、シスター・マリア=アスビィルは、訝しげに眉を潜めた。
 悪魔が精霊術に寡聞であることを僥倖だと口にする以上、件(くだん)の術こそが、現状を打開する秘策と成り得るのだろう。しかし、『エグリグル』の悪魔であるアスビィルを傷つけることは、時に神の力であっても不足する。ましてや、何故精霊の力などで傷つくだろうか。
(精霊が自身の力を高め始めおったか。やはり、精霊術をウチに放つ心積もりかのぅ)
 そのように思考し、しかし、直ぐに紅魔は頭(かぶり)を振った。
(いや、攻撃ではあるまい。ウチの動きを封じるような――違うな。それも結局は、力不足で不発に終わろう。あの精霊は脆弱じゃが、愚かでは無い。明らかに無駄な行いを為すとは思えぬ。ウチを滅することこそ、奴らの本懐。なれば……)
 答えは一つしか無かった。
(トリニテイル術でウチを呑み込み、滅ぼす)
 結局は、そこに尽きた。肝要なのは、神の力を術として放つことである。
(そのために、精霊の術が何を担うか)
 攻撃ではあり得ない。精霊は、直接神の力を放てない。
 光放つ者を、適切な時に、適切な場所へ。
(移動、か)
 シスター・マリア=アスビィルは、そう結論付けた。
 紅魔の視線の先に居る筈のルーヴァンス=グレイは、相変わらず、神の力を受け止め続けていた。受けた力を術へと変換し、全てを呑み込まんと構えていた。
 ティアリスは紅魔の後方で、同じように精霊自身の力を高めていた。相棒の一撃と共に、何かを為そうと企てていた。
(あれ程に神の力を高めた一撃なれば、ウチの闇をもってしても、容易に防げぬ。全方位を一度に護る程度のことすらも、此度のパドルの契約では難しかろう。神の光が来る方角へと、障壁を全力で展開せねばならぬの)
 パドル=マイクロトフの未熟な力で為された紅魔の契約は、彼女の力に、相も変わらず、制約を与えていた。しかし――
「くっくっ。力無きことが、逆に小気味よいわ。あの弱き愚かな人間に、感謝するとしようかのぅ」
 紅玉を怪しく光らせて、魔が嗤った。亜麻色の髪が風になびいて、たてがみのように逆立った。
 彼女の姿は、恰(あたか)も、血に飢えた獣の如きであった。
「これでこそ、闘い(ころしあい)じゃ」
 小さく艶のある唇から、呪いの言葉が放たれた。
 そして、その時、ルーヴァンス=グレイに集った光が、一層輝き、紅き空を、黒き大地を、紫の海を、真っ白に染めた。魔が呪いを振りまく一方で、リストールの町全体が、神の祝福を受けたかの如きであった。
 その光は――
(さて。如何にして来おるか)
 閃光が、紅魔の前方で放たれ、真っ直ぐに向かって来た。強き力が、瞬く間に、魔を滅さんと迫った。
 シスター・マリア=アスビィルは、その軌跡を紅玉に映し、口元を紅き繊月のように歪めた。
「単純明快。想定通り(ざんねん)じゃ」
 ヴン。
 彼女は、濃い闇色の楯を、前方に展開した。迫り来る光を、弾かんとした。
 黒き楯と白き刃が出逢おうという、その刹那――
「第十九精霊術『天扉(ゲート)』!」
 シスター・マリア=アスビィルの後方で、精霊の甲高い声音が響いた。
(……トリニテイル術は最早、放たれおったのじゃ。精霊術は捨て置いてよかろ――)
 前方から迫る神の力が、光の扉の中へと消えた。
 パァンッッ!!
 そして、魔に魅入られた屍体(シスター・マリア)が、白き光に包まれ、弾けて四散した。