九章:紅闇と白光の輪舞
〜護るべき子ら〜

 リストールの町の南方――リストール港では、町民の皆が、不安に表情を曇らせて、俯いていた。彼らのうちの何名かは、視線を地へと伏すのみでなく、耳を塞いで音を拾うことすら拒絶していた。全てに絶望し、終わりを待つだけの、憐れな人形と成り果てていた。
 天上には、紅き六芒星(ヘキサグラム)が描かれ、大聖堂が在った町の中央からは、物騒な爆音が木霊していた。日常からかけ離れた現状を、只々、不安を抱えて無為に過ごす人々の中で、アントニウス家の面々もまた、立ち尽くしていた。
 使用人たちは、再び意識を失った状態で戻って来た長子、セレネ=アントニウスを介抱していた。土で汚れた白き肌を、水で濡らした布で拭いたり、乱れた黄金色の髪を、樫の木製の櫛で梳いたり、不安を払拭しようとするかのように、懸命に尽くしていた。
 ヘリオス=アントニウスは、双子の姉の様子を窺いつつ、紅き天を見上げ、それから、荒地と化した町を見渡していた。生まれ育った地が荒廃して行くさまに、心を乱し、町民と同様に、陰りのある紅き瞳を伏していた。彼は、小さくため息をついて、それから、自身の頬を二度、三度と、打った。滅入った心に気合を入れて、小走りで、港に設置された簡易救護室へと向かった。
 港には、次々とけが人が運ばれてきていた。軽傷の者は自らの足で、重傷の者は警邏隊員に背負われて、やって来た。白い布で覆われた救護室は、そのような人々で埋め尽くされていた。
「へ、ヘリオスさま。どうされました?」
 看護師の一人が、貴族の息子の姿を見止めて、手を止めて寄って来た。
 ヘリオスは、彼女に手を止めないように言ってから、腕まくりをした。
「オレも手伝うよ。簡単なことしか出来ないけどね。指示してよ」
「そんな――」
 何か言おうとする相手を手で制し、ヘリオスは、苦々しく笑った。
「何かしてないと余計なことを考えそーでさ。お願いだよ」
 現状、出来ることは限られていた。
 町へ出て生き残っている者を探し、港へ誘導すること。
 傷ついた者の治療に従事すること。
 そして、只々、不安を抱えて俯いていること。
 ヘリオスは二つ目を選んだ。いや、正確には、三つ目を選びたくなかったのだ。
 彼の姉が何処へ行って、なぜ再び意識を失う結果を迎えたのか、正確なところは分からない。しかし、彼女はきっと、護るべきを護るため、救うべきを救うため、動いたのだろう。
 弟もまた、そう在りたいと願った。
「……かしこまりました。では、この包帯をディートル医師(せんせい)にお渡しください。その後は、水汲みをお願いいたします」
「うん。りょーかい」
 小さく微笑み合って、彼らは、救いを求むる者を助けるべく、忙しく動き始めた。

 マルクァス=アントニウスとミッシェル=アントニウスは、港から少し離れた位置で、町の中央へと視線を投げていた。碧眼は険しく、紅眼は柔和に、闘いの土煙と閃光を、見守っていた。
「どうだい?」
「んー。ルーちゃんたちが一本取った感じですかねぇ。頑張ってはいますよ」
 ミッシェルの賛辞には、含みが有った。決して、神と精霊と子の、三位一体の力が、優位に立ってはいないのだと、言外に滲ませていた。
 マルクァスは、眉を潜めて現状を憂い、細めた瞳を妻へと向けた。
「……そうか。もしもの時は、介入できるのかね?」
 透き通った海のような瞳に真摯に見つめられ、妻がふわりと微笑んだ。
「いいえ。今のところ、無理ですわ。アスビィルも、頑張って用意したみたいですねぇ。約したサタニテイル術士以外があの子を支配するのは、直ぐには難しいです。まー、もーちょっとだけ、ルーちゃんに任せましょう。ね?」
 春の日差しのような温かな笑顔と共に紡がれたのは、楽天的な言葉だった。現在進行形で町を襲う悲劇など、彼女にとっては大したことでなかった。マルクァスも、セレネも、ヘリオスも、彼女の家族は今のところ、五体満足で無事でいる。問題など皆無であった。
 アントニウス家当主は肩を竦め、絶望の地を照らし出す紅き六芒星(ヘキサグラム)を、海色の瞳に映した。それから、ゆっくりと、その瞳を閉じ、微笑と共に嘆息した。