九章:紅闇と白光の輪舞
〜日常の光〜

 神の光が空を照らし、リストールの町の方々(ほうぼう)を白く染めた。しかし、光は闇を退けられなかった。白光が微弱なわけでは無かった。紅闇が濃すぎたのだ。
 緩慢に緩慢に、紅玉の魔から放たれる黒き光が、白刃を退けていった。
「ふフフ。そロソろオわリカえ? よクヲいえバモうすコシあソびタカッたのジゃガ、マあ、そレナリにたノシめタの。れイヲいうゾエ」
 不可思議な響きの声音が、肉片の隙間から響いた。紅玉を取り巻くのは、相も変わらず、肉と筋と、ぴくぴくと脈動する血管の集合体だった。肉塊(アスビィル)は顔など持たずとも、器用に嘲嗤っていた。
 一方で、人の子と精霊は歯がみし、必死で力を振り絞った。
「ちっ! こっちの威力自体は上がっていやがるんですがね!」
「いいいいっそ、き、キスをして、より一層親密になるというのは――」
「そんなきっめーことをほざけるなら、まだ余裕があるですね! 死ぬ気で術に集中するですよ! つーか、死にやがれです!」
 会話の内容には余裕を感じるが、実際のところ、彼らの表情には余裕が一切無かった。玉のような大粒の汗を額に、頬に、それぞれ浮かべて、出し得る限りの力を出し続けていた。
 そんな光の使徒たちとは対照的に、闇より出でた紅の魔(アスビィル)は、楽しそうに、紅玉をころころと回していた。そして、紅闇色の光を放ちつつ、彼女は、漸う、屍体(シスター・マリア)を形成し直した。
 紅玉が一つから二つになり、頭蓋骨が生じ、頬肉や金の髪が生じ、肺以外の内臓が生じ、それらを覆うふくよかな肉体が生じた。荒廃した町の中央に、裸婦が顕れた。
 黒と白の光がせめぎ合い、空には紅き六芒星(ヘキサグラム)が浮かぶ中、大地には乳房や恥部を露出した、透き通るような白き肌の女性――シスター・マリアが居た。
 紅と白と黒の混じり合った荒廃の中に在る裸体は、煽情的な要素など皆無であり、只々、異様のひと言に尽きた。三色の光を映じた首筋も、乳房も、脚線も、恥部も、人界の終焉を告げる絶望の匂いを漂わせていた。
 絶望(シスター・マリア=アスビィル)は、相も変わらず、余裕の表情を浮かべ、小さく艶やかな唇を開いた。
「さて、そろそろ終いにしようぞ。お主らを殺したら、更に多くの者を殺し、多くの物を壊そう。特に、人界の建物は壊しがいがあるしの。工夫を凝らした物は、壊してこそ面白いというものじゃ。のう?」
 賛同しがたい主張を口にしつつ、シスター・マリア=アスビィルが腕に力を込めた。ゆっくりと、ゆっくりと、悪魔の放つ光が、神の白光を侵食していった。
 一層、ルーヴァンスとティアリスの顔が、焦燥に染まった。
「ああ、そうじゃ。せっかくじゃしの。また誰か、他の者をたぶらかし、更なる力を引き込むとするかのぅ。さすれば、もっともっと殺し、もっともっと壊せるというものよ。ふふふ」
 紅闇の進撃は、全く止まらなかった。
「この町の血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)は、規模の割に、愚者(パドル=マイクロトフ)に少なからず残っていた躊躇と、あやつの力不足が相まって、中途半端にしか扱われておらぬ。罪人を殺したいという願いの裏にも、この女を生き返らす、というあり得ない、かつ、下らない想いが隠れておったのがまずかった」
 自身の体を――シスター・マリアの屍体(からだ)を示し、紅魔(アスビィル)が言った。
 人の死は覆せない。ゆえに、その願いが悪魔を求めようとも、強き力を得ることは難しい。
「『魔の上に立つモノ(ドミナトゥル)』よ。お前ならばウチの力を九割方は喚び込めそうではあったが……」
 そう口にしてから、シスター・マリア=アスビィルはゆっくりと首を横に振った。
「お前はウチを気に喰わぬと見える。それに、ウチもお前が気に喰わぬ。その目が、真っ直ぐ前を見つめる、今となっては、絶望の宿らぬその目がのぅ。まったく…… アルマースと精霊にたぶらかされおって」
「……それは……残念ですね……」
 さほど残念そうでもなく、ルーヴァンスが呟いた。
「だ、第六精霊術『聖霊砲(しょうれいほう)』!」
 ずんッ!
 ティアリスが新たなる閃光を生み出した。その光は、ルーヴァンスが生み出している光へと合流し、更なる力と成った。
 しかし、その希望(ひかり)はあまりにも微弱でしかなかった。
「神の力を扱いながら、焼け石に水としか言えぬ、精霊自身の力を放つとは、無駄な無茶をするのぅ」
 紅き瞳を細め、余裕のある表情で、悪魔が嗤った。
 無駄を承知で無茶をしようとも、強き紅の魔を退けるには至らないことが証明された。実際、神と精霊の白き力は、相変わらず、悪魔の紅黒き力に押され続けていた。
「さぁて。そろそろ本気で飽きてきたのぅ。これで――さよならじゃ」
 そう口にすると、アスビィルの顔から薄笑いが消えた。彼女は表情を引き締め、全身に込める力を増した。
「……ぐッ!」
「ッち! クソ悪魔の分際で、生意気です……!」
 人の子が表情を歪めて呻き、精霊は人の背に顔を埋めて毒づいた。彼らは、自分たちの力が紅闇に遠く及ばないことを、自覚していた。しかしそれでも、決して諦めることなく、精一杯に力を腕へと込めつづけた。そうすれば、不足している実力が埋まるかの如く、そう信じて。
 光の尽力には頓着せず、闇はどこか気もそぞろに未来を見つめ始めた。紅色の瞳を希望(はかい)に輝かせた。
「流石に、そろそろ終いのようじゃ。ふむ。次はそうさな。アルマースに利用させたあの女――セレネとかいうたな。アレを使って、更に力を喚び込むかの」
 ぴくり。
 微かに、人と精霊の表情に変化があった。
 そのようなことには気づかず、紅魔は、おざなりに闇を放ちつつ、南へと視線を投げた。港には、魔界から流れ込む力を扱えそうな者が、他にも数名居た。
「さて。どうやら、術士として使えそうなのはあやつと、他に二匹といったところ――」
 そこで、シスター・マリア=アスビィルは微かに眉を潜めた。
(? 一匹おかしな者がおるの…… 存在を偽装しておる。ウチでも本質が見抜けぬとは――何者じゃ?)
 僅かながらの不安を覚え、しかし、紅魔は捨て置くことにした。所詮は玩具(ひと)のうちの一匹でしかない、と。
 ぐぐっ!
 シスター・マリア=アスビィルが寸の間、思索にふけっていたその時に、白と黒の光が、再び、均衡し始めた。黒白の双方がとてつもない力を秘め、互いにその力を削ぎ続けていた。神と魔の力の応酬は、眩い光を放ち、バチバチと鋭い音を響かせていた。
「ぬ? あれかえ。火事場の馬鹿力というやつかえ?」
 別段あせることもなく、いっそ、線香花火の最期の足掻きを楽しむ幼子のように微笑み、シスター・マリア=アスビィルは、更なる力を込めた。まだまだ、余裕があるようだった。
 しかし、紅闇(アスビィル)側の力が増したというのに、黒と白の二つの光は、均衡したままだった。それどころか、逆に、白き光が黒を押し退け始めていた。
(これは……)
 幾分の驚愕を顔に浮かべ、しかし、それでもシスター・マリア=アスビィルは、余裕をもって嗤っていた。
「ふむふむ。どうやらお主ら。土壇場でより一層信頼し合った――いや、信頼というよりは、目標が合致した、といったところかの。まったく、理解できぬわ。それほどまでに人間どもを守りたいかえ?」
 嘲笑と共に尋ねられ、精霊さまもまた嗤った。
「はっ。ワタシがクソ虫どもを守りたいとか、微塵も思うわけねーじゃねーですか。バカですか、死ぬですか?」
 暴言を吐いた女児――ティアリスは、基本的に人間が嫌いだった。それは、彼らがしばしば、汚い欲に塗れる故だった。そして、彼女は人間が嫌いなどころか、神も悪魔も嫌いだった。精霊が相手であっても、場合によっては容赦なく嫌った。
 それは、精霊としての性質というわけでは勿論無く、彼女自身の性質だった。彼女は、どのような相手であっても、初期の印象がマイナスから始まっていた。彼女にとって、他者を守るなど、他者を信じるなど、悪い冗談でしか無かった。
 けれど――
「とはいえです。セレネにはほんの少しとはいえ助けられたですからね」
 例えば、人垣に阻まれたとき。
 例えば、変態に迫られたとき。
 それぞれは小さな助けでしかなかった。セレネ=アントニウスは、困っていた者を常識的に、常識的な判断で、救っただけだった。それでも、希望(すくい)は喜びを与えた。
「だから、ちょっと気が迷ったです。……セレネがしたいことを、助けてやらねーでもねーって、そう思っただけですよ!」
 ティアリスがキレ気味に叫んだ。
 彼女が人間を嫌っていることに変わりはなかった。当然ながらルーヴァンス=グレイのことは嫌いだったし、彼以外の人間も気にくわない者ばかりだった。しかしだからといって、必ずしも誰かを好きにならないわけではなかった。少なくとも、セレネ=アントニウスのことは嫌いでは無かった。
 ルーヴァンスが、小さく笑った。彼もまた、セレネ=アントニウスに救われた。彼女の笑顔は、幾度も彼を癒し、彼に人界や未来を信じる心を与えた。それらは決して大それたものでは無く、いつだって日常に溢れていた。ルーヴァンスの内に宿る闇は、かつての戦争で極限まで増大し、しかし、日常(セレネ)によって照らされ、小さく小さく成っていったのだ。
 アスビィルは、その日常(ひかり)を損なおうとしている。精霊と人の子は、心の底から、その紅魔(アスビィル)を阻むことを望み、未来(セレネ)を望んだ。
 しかし――
(確かに、トリニテイル術の力が増している。けれど、アスビィルの力にはまだ余裕があるように見える。このままだとまずい)
 事実、シスター・マリア=アスビィルは面白そうにニヤニヤと笑いつつ、ルーヴァンスとティアリスが必死で放つ白き光を、さほどの苦労もなく止めていた。
 何度目かに渡る均衡状態となった。
「退屈かと思いきや、こうして思わぬ喜劇(ショー)を見せて呉れおる。ふふふ。楽しいのぅ。大した力も出せない割には、楽しくしてくれたのぅ。感謝するぞえ、人間よ。精霊よ。しかしなぁ……」
 明らかに、光の子らは、もう限界だった。
「この辺で終いじゃろう。ウチをたっぷりと楽しませてくれた礼じゃ。せめて、苦しまずに逝くがよい!!」
 リストールの町が、紅黒き光に満ち、絶望に包まれた。