九章:紅闇と白光の輪舞
〜白へ還る世界〜

 シスター・マリア=アスビィルが人界に終焉を宣告した、まさにその時であった。急激に、紅黒き光の勢いが落ちた。
『なっ!』
 紅魔(アスビィル)と共に、ルーヴァンスとティアリスもまた、驚愕の声を漏らした。
 その後の彼らの運命は、当然ながら二分した。
「な、なんじゃ、これは! ウチの力がまたも奪われておる!」
 余裕など一切なく、淡紅(とき)色の瞳の裸婦が叫んだ。玩具(おもちゃ)を取り上げられた幼子のように、悲しみと怒りを伴って、我侭に叫んでいた。
 しかし、我侭な幼子に玩具が返されることなど無きように、紅の薄れゆく魔に対して力が戻されることも決してない。
「ウチの制御がきかん! そ、そんなわけはない! そんなわけはッ!」
 魔の上に立つ者(ルーヴァンス)であっても、エグリグルの悪魔であるアスビィルの力を、完全に奪い取ることは出来ない。よしんば出来たとして、幾割かを掠め取る程度だろう。
 にもかかわらず、紅魔は今、全てを奪われようとしていた。
「人界へ雪ぐ一切の力が奪われおる……! いったい誰が――」
『ルーちゃんたちと遊びすぎですよぉ、アスビィル。だから、わたくしの支配を受けてしまう程に弱るのですわぁ』
 突然、魔界に居るアスビィル本体へと、声音が届いた。ゆっくりとした口調の、緊張感のない声だった。
 アスビィルは、その声に聴き覚えが有った。
『お、王の魂! お前――』
『その呼び方は止めてくださいな。どちらかと言うと、貴女たちの王がついでなんですからぁ』
 魔界へと届いた声は可笑しそうにしていた。言葉の端々に笑顔が散りばめられていた。
『何故、人間を護る……? お前も人間を嫌っていた筈じゃ』
 かつて、アスビィルが彼女とまみえた時、彼女は人界に、神に、絶望していた。人界を護る為に動くわけが無かった。
 そして、その認識は今でも正しかった。
『そんなの、簡単なことですわぁ。わたくしに『人間』を、人界を護る気など、ありませんもの。わたくしは、マルクァスとヘリオスと、セレネを護るのです。『家族』を護る。その願いに忠実なだけ。ただ、それだけのことですわ。貴女がやんちゃしたのがこの町でなければ、寧ろ手伝ってあげましたのに。うふふ』
『家族……』
 合点がいったというように、魔界に在る紅い瞳の悪魔と、人界に在る碧い瞳の屍体が嗤った。彼女は誰でも無い、彼女自身を嘲笑っていた。
『アレはお前の…… どうりでのぅ。ウチも何故、気付かなんだか』
 魔界の一角で呟いた魔の者の表情には、既に諦観の念が有った。人界に在る彼女の器に宿る力は、急速に衰えて行っていた。勝敗は最早、決していた。
 瞳から紅の失せた、抜け殻のような屍体(シスター・マリア)を、円らな空色の瞳に映して、精霊が訝る。
「……ヴァン? またてめーが?」
 ティアリスの問いに、ルーヴァンスは首を横に振った。
「いいえ。僕ではありません。僕以上のサタニテイル術士が、この町にはいるんですよ」
 彼は一瞬、金色の瞳を、南へと向け、そちらに居る筈の元上司に、心の中で敬礼した。
(助かりました。ミッシェル隊長)
 それから、力強く笑い、視線を人界に在る悪魔の器へと戻した。
「それよりも――」
「おっけーですよ」
 相棒の言葉に頷いて、ティアリスは神の力を人界へと引き込んだ。力は精霊を経由し、人へと至り、人が力を術と成す。
 白き光がより強く、輝きを放った。紅闇を押し返し、そのまま、霧散させた。
 そして――
 かっ!
 人界のみならず、神界、魔界、精霊界――四界全てを照らさんがばかりに、いっそうの輝きをました白き光は、一気に魔を飲み込んだ。
 僅かに残っていた紅が、白へと帰した。
「があああああああああああああぁああッッ!!」
 断末魔と共に光に包まれ、『エグリグル』の悪魔アスビィルは、ついに消えさった。
 後には何も残らなかった。悪魔も、屍体(ひと)も、何もかも。
 パドル=マイクロトフが潜在的に望んでいた願いすらも叶うことなく、全てが終わってしまった。
 絶望も何も、希望すらも、決して残ることなどなく、愚者が自死すら厭わずに抱いた願いの結果が無というのは、只々、空しさばかりが際立っていた。
 白翼に抱かれて夜天に浮かぶ人と精霊の背後では、真紅の六芒星(ヘキサグラム)が漸う淡紅(とき)へと変じ、遂には唯の黒一色へと成り果てた。その黒のただなかには、一抹の寂しみが浮かんでいた。遥か遠くから届く優しい光の筋が、大地を照らしていた。
 こうして、人界を冒していたひとつの事件の幕は、どこか物寂しさを残したまま、下ろされたのだった。