エピローグ
〜精霊の王〜

 煌々と陽の光に照らされたリストール港では、釣りたての魚を焼いて売りさばいている屋台が出ていた。その屋台の前を、黒髪の女児が通った。彼女は空色の瞳を焼きたての魚へと注ぎ、足を止めた。そして、その魚をおもむろに手に掴んで、一切の躊躇なく、はむっと頬張った。
「ちょ、ちょっと、お嬢ちゃん! お金払って貰わないと――」
「ご、ごめんなさい!」
 ずいッ。
 怒れる店主と女児との間に、金の髪の少女が割って入った。彼女は、紅の瞳を申し訳なさそうに伏せていた。
「今は持ち合わせがないので、あとでボクの家に請求してください」
「おっと、セレネさまのご友人でしたか。それでしたらどうぞ、ご自由にお食べください」
 リストールの町の代表貴族アントニウス家のご息女セレネ=アントニウスの姿を見て取ると、屋台の親父は一転して気をよくした。逆に、ここでたくさん食べてもらった方が、売り上げが増えて万々歳であった。
 しかし、言葉を向けられた女児――精霊ティアリスは、そっぽを向いた。
「あんま旨くねーので二本も要らねーです」
「ぼぼぼ、ボクがもらいますっ! ほら、ヘリィも!」
 精霊の暴言を耳に入れ、セレネが慌てた様子で焼き魚の串を二本手にとった。
 彼女の隣を歩んでいた双子の弟、ヘリオス=アントニウスもまた、串の一本を手に取った。そして、すぐさま頬張った。
「んぐっ。んー、オレは美味しいと思うけどなぁ」
 唇をひと舐めしてから、少年は満足そうに頷いた。短い金の髪が微かに揺れ、双眸が紅く輝いた。お世辞ではなく、本気で美味だと感じているようだった。
「ヴァン先生もどうぞ」
 セレネはにっこりと微笑んで、手にした二本の内の一本の串焼きを、銀髪金眼の青年へと差し出した。魚に触れないギリギリのところを手にして、ギクシャクした動きで串を差し出す様は、緊張に満ち満ちていた。
「ありがとうございます。セレネくん」
 ルーヴァンス=グレイもまた、教え子から受け取った食物を口に含み――
「確かに、それほど旨くないですね」
「いやいやいや! ヴァン先生! アリスちゃんの意見に迎合しないで、きちんと本音を言ってください!」
 師の言葉の意図を瞬時に察した生徒が、懇願するように叫んだ。
 ルーヴァンスは苦笑し、小さく手を上げて謝意を示した。
「申しわけありません。セレネくんの仰る通り、ティアに気に入られたくて意見を合わせました。きちんと美味しいですよ」
「ボクは、適当に意見を合わせても信頼されないだけだと思います」
 ぷくっと頬を膨らませて、セレネが言った。
 ルーヴァンスが魚を酷評したことではなく、ティアリスに好意を寄せていること自体を、大層気にくわないご様子だった。相も変わらず物好きな少女である。
「まあ、てめーがどんなにこっちに合わせてきやがっても、ヴァンがヴァンとして存在しちまっている時点で、ワタシがてめーを気に入ることなんて金輪際ねーですよ。ご安心下さい。このクソ虫が」
 精霊さまが、満面の笑みで言い放った。
「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。女児の暴言が心に突き刺さって、僕はもう!」
「寄んなです! 第十精霊術『聖打』!」
「ぶふぅ!」
 興奮と共に女児に迫った変態が、吹き飛んで大地に倒れ伏した。
「ルーせんせえ…… 怪我とか治りかけなんだし、大人しくしてなよ」
「何を仰いますか、ヘリオスくん! 女児に興奮しないなんてあり得ませんよっ!」
「……あり得るよ」
 現在、ロディール国営の学問塾は休みとなっているが、塾長が今朝、二日後から再開するとアントニウス邸に報告に上がっていた。当然ながら、ルーヴァンスもまた、古代悪魔学の講師としての仕事を再開する。そして、国営塾には初等科があり、女児が多数いる。
 そのような事実を思い出し、ヘリオスが頭を抱えて深いため息をついた。
「今さらだけど、ルーせんせえが初等科でも授業するの、何か不安だよ」
 その言葉に、ルーヴァンスが心外だとでもいうように肩を竦めた。
「僕はプロの講師ですよ。プロは生徒に手を出しません!」
「えッ!」
 驚愕の声を上げたのはセレネだ。ぶるぶると青い顔で震えていた。
「じゃ、じゃあ、ボクが相手にされていないのも……」
「セリィは女児じゃねぇじゃん」
「セレネはやっぱ糞バカ野郎ですね」
 こぞって馬鹿にされた。
『そもそも、昔ならばともかく、今のルーヴァンスのどこがいいのか、理解に苦しむ。セレネは変だぞ』
 先日の事件以来、たまに頭の中でコメントを残すようになった『エグリグル』の悪魔――アルマースにすら突き放された。
 引きつる顔でぎこちなく笑み、セレネがゆっくりと大地に跪いた。祈りの姿勢を取り、ゆっくりと瞑目した。
「い、イルハードさま。罪深き彼らに、ちょっとした天罰をお与え下さい」
「あれだけ色々あって、まだ神さまに祈るんだ。すげーな、セリィ」
「つーか、罰じゃなくて許しを与えやがれですよ」
 信仰の薄い者と、信仰などせぬ者が、それぞれに肩を竦めた。
『望むならば私が、足の小指を角にぶつけるように仕向けてやってもいいぞ』
「しなくていいですっ!」
 親切な『エグリグル』の悪魔の言葉を、人の子は強固な意志で退いた。
 そして、双子の弟と精霊さまを、紅い瞳でキッと睨んだ。
「パドル神父さまのこととか、今回の諸々とか、そういうのはともかく! 信仰は大切なんですっ! 朝にお祈りをしていると清々しい気持ちになれるし! イルハードさまが見守ってくれていると思うとがんばれるし! 心が豊かになるんです! 実益なんてなくていいんですッ! 信仰っていうのは、それでいいんですッッ!!」
 はぁ! はぁ!
 セレネが涙目になって怒りを爆発させた、その時――
 ヴン。
 鈍い音が響いて、何もなかったはずの空間に、光の扉が生じた。
「えっと…… これ、何でしょう? ヴァン先生」
 あまりに突然の事態に、興奮していた人の子はすっかり冷静さを取り戻して、尋ねた。
「さあ? これは僕にもわかりませんが……ティアはどうです?」
「精霊術の一種で、世界と世界を繋ぐ扉を生み出す術ですが…… これを使えんのは、精霊界でも一人だけですよ」
 精霊さまの言葉の意味を、人の子たちは瞬時に理解した。そして、少しばかり表情を暗くした。
「それじゃあ――」
 光の中から、壮年の男性が姿を見せた。茶の長髪を後ろで緩く結わえ、若草色のローブに身を包んでいる。ひょっとすれば女性と見間違えそうななりと、やや緑がかった黒い瞳が印象的だった。
 彼は光の扉を閉じてから、集っていた一同を見回し、その中の一人へと視線を注いだ。
「ティアリスよ」
「ちっ。ボケ王さま、やっといらっしゃったですか。お早いお迎え、ご苦労ですよ」
 いち精霊の嫌味たっぷりの暴言に、精霊の王は謙虚にも頭を下げた。
「こうして連絡が遅くなったこと、すまなく思っている」
「ああ、別にいーですよ。ここ数日で怪我もおおかた治りやがって、疲れも取れたとこで、そろそろ迎えにくんだろーとこいつらとも話していたところです……から……」
 そこまでつらつらと口にして、ティアリスはおかしな点に気づいた。彼女は精霊王を真正面から睨み付けた。
「てめー今、『連絡が遅くなった』と言いやがったですか? 『迎えが遅くなった』でなく」
「ああ。そう言った」
 淡々と述べる王を瞳に映し、ティアリスの胸には言い知れぬ不安が広がっていった。
「……何の連絡でいやがるですか、ボケ王?」
「この町の血六芒星(ブラッディ・ヘキサグラム)は、サタニテイル術士が死ぬことで完成した。それゆえなのか、どうやら中途半端な状態のまま残ってしまっているのだ」
「で?」
 何やら嫌な予感がむくむくと湧いてきた。ティアリスは露骨に眉を潜めて見せた。
 精霊王は無表情のままで軽く肩を竦めた。
「結論はお前も判じているだろうが、ここは悪魔が干渉するに易い場となってしまった」
「だから、で? もったいぶんじゃねーです、ドグサレ糞アホ王さま」
 ティアリスにとって大事なのは、人界の町の現状などではなかった。その先にある、精霊王が降した決定だけが肝要だった。
「我らはイルハードさまのご意思のもとで動く」
 人が悪魔を求めるのであれば、それは自然なことである。その結果がどのような悲劇であろうと、神は気にされない。そして、人同士の悲劇であっても、彼は気にしない。
 それがイルハードの意思なのだ。
 しかし――
「我らは、悪魔が人に干渉することを収めねばならん」
 ただ一点、神はその事態を許容しない。それは一説に、悪魔を生み出したのが人であり、主が人、従が魔と、世界が決めているゆえだと言われる。従が主に干渉する行為を認めるならば、全ての主たる神もまた、悪魔に、精霊に、そして、人に、全てに脅かされかねない。
 だからこそ、此度の事件においてイルハード神は、精霊を遣わして人をお救いたもうた。
「んなことはどーでもいーです! 結論を言えです! マジさっさとするです! ぶん殴るですよ!」
 ティアリスは不機嫌さを隠すこともなく、精霊界の王を威嚇した。
 ここで初めて、王が言葉に詰まった。しばし逡巡してのち、しかし、ためらいながらも言の葉を口から絞り出した。彼の腰が引けているように見えるのは、気のせいではないだろう。
「……この町へ今後も悪魔の干渉が起こり得る以上、看過できんという決に達した。今しばし、我ら精霊はこのリストールの町を守護する体制を採る」
 精霊王の言葉はティアリスの希望に沿うものでなく、まず間違いなく、絶望を孕んでいた。彼女の嫌な予感は今まさに、現実に成ろうとしていた。
「第一級トリニテイル術士、ティアリスよ。お前に――」
(あぁ、クソ神さま)
 ぬばたまの髪を震わせ、空色の瞳を揺らめかせ、ティアリスは珍しく、イルハード神へと祈りを捧げていた。いや、祈りというよりは、呪いを……
「人界の町リストールへの常駐を命じる」
(あんた、マジ死ねですよ……)
 精霊は呪いを心に浮かべつつ、ぽかんと口を開けて固まった。彼女の身体からは、時が経つにつれて怒りの気が揺らぎ出した。黒髪のみならず、体全体が怒りに震え始め、空色の瞳を揺るがせていた液体は、涙として目尻に溜まった。
 そのような部下の様子を瞳に映して、精霊王は慌てて、イルハードさまがそのように仰ったのだ、との一文を添え、見事に責任の所在を天上の神へと移してみせた。
 神は直接人界へ介在できぬゆえ、一切の文句を紡げなかった。
 一方で、彼らの様子を神妙に観察していた人間たちは、漸うその顔に笑みを浮かべた。
「じゃ、じゃあ! アリスちゃんとまだ一緒にいられるんですね!」
「んー、オレは正直なとこ複雑…… 明らかに嫌われてるし……」
 双子がそれぞれ、あるいは嬉しそうに笑い、あるいは曖昧に笑った。
 そしてもう一人、明らかに挙動不審な男がいた。
 彼の銀色の髪は、身体がびくっびくっと震えるたびに波打ち、金の瞳はギラギラと輝いていた。肌はつやつやと血色がよくなっていき、精力剤でも口にしたかの如きだった。それでいて、ぐふふと妙な笑い声をたてたり、はぁはぁと荒い息をついたりと、妖しいことこの上ない様子であったため、港で露天を開いていた者も、釣りに興じていた者も、愛を語らっていたカップルも、ついでにヘリオスも、ドン引きして遠く離れていった。
 そして、精霊王もまた、逃げるように踵を返した。右腕を徐にかざして、何も無い空間に再び光の扉を作り出した。
「連絡は以上だ」
 そうとだけ口にして、精霊の王は精霊界へ戻ろうとした。しかし、扉を潜る直前に首だけで振り返って、言葉を残していった。
「精霊ティアリスよ。お前も理解しているだろうが、第一級認定されたトリニテイル術士と釣り合う人間は稀少だ。信頼のなさゆえに術の威力が出ないなどということがないよう、日頃からそちらの彼と親睦を深めるようにするのだぞ」
 ヴン。
 とんでもない言葉を残して、王はあっさりと去った。当然、精霊界へ戻る為にティアリスが潜りたかった光の扉も、一切の余韻を残さずに消え去った。
 人界の町の港をしばしの沈黙が満たした。