我が二年七組の一時間目は古典だった。ありおりはべりいまそかりってやつだ。正直、外国語並によく分からん。下手に見覚えのある字面をしてるのが、逆に質が悪い。英語のようにアルファベットなら諦めがつくのだが、ひらがなや漢字を見せられると何となく理解できそうな気がしてくる。しかし、実際は理解できないのだからして、とんでもない詐欺である。
そのような犯罪めいた授業が、スピーカーから流れるチャイムを受けて終わりを告げた。次の授業は世界史か。これまた辛い時間である。嫌いというわけではないのだが、暗記系の科目はどうしても精神力が削られる。今朝はばたばたしていたから、暇つぶしのためのグラビア雑誌も忘れてきてしまった。鵬塚兄のせいだ。ちくしょう。
まあ、そんなことを考えていても仕方が無い。鵬塚兄には今度何か要求するとして、目下の問題は二時間目をどう乗り切るか、だ。文芸部の部室においている本でも持ってくるかな。休み時間は十分しかないが、急げばまだ間に合うか?
「ままま、真依!」
十分しかない貴重な休み時間に、他のクラスのアホが慌てた様子でやってきた。まあ、鵬塚に用事のようだし、俺は尚子なんぞ無視して本を入手しに行くとしよう。
……っち。学外のアホから着信だ。
「何だよ」
『おや。何やら不機嫌だね』
急がなければならない時に暇人からの電話を受ければ、大概の人間は多少なりとも不機嫌になる。
「さっさと用件を言え」
『速水さんのクラスに転校生が来た』
それは電話してくる程のことだろうか。いや、そんなことはない。よし。切ろう。
決意通り、通話を切った。
今度こそ、部室に暇つぶしのためのアイテムを取りにいかねば。
「あのね! うちにね! 転校生がね!」
奇しくも、尚子が持って来た話もまた、転校生についてらしい。
転校生なんてどうでもいいとまでは言わんが、鵬塚兄も尚子も、わざわざ今言及することではないだろう。昼休みの話題にでもとっておけよ。
教室の扉を開けて廊下に出ると、少々、騒がしかった。何人かが階段を駆け下りていった。
俺も部室へ向かうために小走りで階段を下りる。しかし、直ぐに立ち止まる。
階段に人が溢れていた。特に女子が多いようだ。何やら黄色い叫びが階下から聞こえる。
よく分かんねえけど、すっげえ邪魔……
「すっごい格好いい! いいなぁ、三組!」
「あの転校生、フランス人なんだって! フランスの挨拶ってなんだっけ?」
ふむ。たしか、ボンジュールだな。おはようなのか、こんにちはなのかまでは分からんが。
いや、見知らぬ女子の疑問に脳内で回答している場合じゃない。最近、フランスという国の話題を耳にした。それもつい今朝のことだ。しかも、全く嬉しくない話題だった。
なるほど、鵬塚兄と尚子がわざわざ貴重な十分の休み時間を費やそうとした理由はこれか。
その時、再度、鵬塚兄から着信があった。
「この界隈も国際化が進んだな。それも、フランス人に人気らしい」
『マナーを守ってくれるなら歓迎するのだけれどね。いやはや』
電話の向こうの鵬塚兄が、困り顔で肩を竦めるのが分かった。口調は少しふざけた様子だが、実際のところ、頭も胃も痛いことだろう。俺も痛い。
その転校生が例の襲撃者と関係あるのか、現時点では皆目見当もつかないが、警戒しないわけにもいかんだろう。取り敢えず、なるべく鵬塚を三組に近づけないようにしないとな。
昼休みになった。弁当をさっさと食べて太郎と雑談に興じていると、教室の扉が開いた。
勿論、特におかしなことではない。休み時間なのだから、生徒だろうが教師だろうが、自由に扉を開ける権利がある。
しかし、扉を開けて入ってきたのが別のクラスの人間となると目立つのは否めない。その上、その人間が伴っていた人物は本日、本校中の耳目を集めている者だから尚更だった。
「てめえがホーツカマイか?」
ぞんざいな言葉遣いの人物はヤンキー、ではなく、外国人だった。金髪碧眼がよく目立つ、鼻筋の通った美男子だった。その美しさゆえに、睨みの利いた視線と乱暴な言葉が凄みを増していた。今、この学校に外国人がいる時点で、彼が何者かを特定するのは容易だ。つまりは、鵬塚兄が言っていたフランス人転校生に違いない。
鵬塚を三組に近づけなくても、向こうからこっちに来やがった……
声をかけられた当人は、特に危機感を覚えた様子もなく、不思議そうに小首を傾げてから、コクコクと頷いた。その後、やはり不思議そうに美男子を連れてきた尚子へと視線を向けた。
「あのね、真依。この人はクロードくん。フランスから留学してきた転校生……らしいよ」
尚子は簡単な説明をしてから、何やら含みのある視線をこちらに投げてきた。
状況を把握はしている、という意味を込めて、とりあえず頷いておく。
「三組の女子どもがお前のことを運動神経抜群と評していたが……雰囲気だけだとどんくさそうだな」
そこは否定できん。鵬塚はどこかのんびりした雰囲気を醸し出している。球技でボールを踏んづけて転びそうなイメージだ。
しかし、実際のところは、各部のエースを息も切らせずに打ち倒す程の運動神経を持ち合わせている。これは、星選者としての特性のひとつらしい。クロードとやらの目的が、想像通り星選者の特定なのであれば、ここは危うい場面といえる。
そのような事情を知ってか、知らずか、鵬塚は何も気にせずに、コクコクと首を縦に振ったり、フルフルと横に振ったり、場合によっては、マゴマゴと視線を泳がせたりしている。
「おい」
クロードが苛ついた様子で低い声を出した。
「てめえ。ふざけてんのか?」
何のことだろうか?
「首を振るだけの適当な対応をしとけば、こっちが諦めて帰るとでも思っていやがるのか! ああ!?」
ガラ悪すぎだろ。誰に日本語習ったんだ、このフランス人は。元々の性格も悪そうだが。
マゴマゴ。
鵬塚はすっかり困った様子で挙動不審になった。
ちなみに、鵬塚はジェスチャーだけで対応していたわけではない。いつも通りの聞き取りづらい発声量で『社交的に』対応しているつもりだったのだ。そうであるにもかかわらず、先のようにいちゃもんをつけられ、何が何だか分からないという心持ちであろう。
しかしまあ、クロードは鵬塚真依という生物とファーストコンタクトなのだからして、このような認識の相違も仕方がないと言える。冷静に溝を埋めていくしかない。
「ちょっと! 初対面でそれはないんじゃないの! 真依はいつもこうよ! あたしから言わせればあんたの方がふざけてるわ!」
「んだと!」
クロードの心を忖度する前に怒り出した直情型馬鹿がいた。尚子である。もっと穏便にすませろよ、アホ。
「ちょっと落ち着け、二人とも」
「……てめえは?」
おっと、自己紹介がまだだったか。
「富安泰司だ。一応、鵬塚の親友ということになっている」
「……んと……ん……う……!」
俺の言い様が気に入らなかったのか、鵬塚が頬を膨らませて抗議していたが、軽く無視しておこう。幸いというべきか、クロードは鵬塚の言葉を解すこともなく、こちらに鋭い視線を向けてきた。
「ふん。なら、てめえに聞くか。マイの運動神経はどの程度だ?」
唐突に鵬塚の瞳が輝いたが、これまた無視しておこう。どうせ、自分のことを名前で呼ぶ男子が珍しいので親友になれる可能性がある、とか何とかアホなことを考えているに違いない。そもそも、コミュニケーションに飢えた鵬塚のことだ。外国人の友達に憧れがあってもおかしくない。
ある意味で極限に図々しく、ある意味でどうしようもないコミュ障な親友殿のことは放っておき、クロードの問いには適度にとぼけるとしよう。
「どの程度と聞かれても、答えづらいな。まあ、スポーツで目立つ小学生男子みたいなもんってとこか。どこの学校にでもいるだろ、そういう奴」
おフランスにもいるかは分からんがね。
「喧嘩はどうだ?」
「どちらかというと大人しい奴でね。喧嘩らしい喧嘩は一度もしてねえよ。偶にお前みたいに短気な奴が、苛立ちを一方的にぶつけることがあるくらいだ」
「……ふん」
クロードはどこかバツが悪そうに息を吐く。これまでの流れで、鵬塚のコミュニケーション力の無さが知れたのか、先程の暴言を少なからず反省しているようにも見える。案外、悪い奴ではなさそうである。
この時期にフランス人が転校してきたことを楽観視するわけにもいかんが、少なくともこいつの目的は、鵬塚――星選者の命ではなく他の何かなのかもしれん。というのは、結局のところ、現状からすると楽観視が過ぎるか。
「なあ、クロード……と呼んでいいのか? というか、名字、じゃなくて、えっと、ファミリーネームか。そっち、知らんけど」
「クロード=ミシェル=ドラノエ。だが、クロードでいい」
「じゃあ、クロード。お前、つまりは何がしたいんだ? こいつの運動神経が良かろうが、喧嘩が強かろうが、お前には関係ないだろ?」
つまるところ、これだ。クロードの目的が星選者を見つけ出すことだとして、この場でそのことを語り出すわけはない。どのような反応を示すかで、こいつの正体をうかがい知ることもできるだろう。
クロードの視線は、俺、尚子、鵬塚と遷移し、それから、ぶっきらぼうに言葉を吐き出した。
「オレがこの学校のドンになる。マイがジャポネスケバンなのであれば、オレと戦え」
『……』
長い沈黙が続いた。二年七組一同とついでに尚子は、こんなにも黙り込むことが出来たのか。知らなかった。世紀の大発見だ。
そして、よく分かった。クロード=ミシェル=ドラノエ。こいつはただの――アホだ。