第5話『学びを修める者』09

 天橋立駅からホテルへ向かい、そのホテルのロビーでひと揉めあった。といっても、星選者関連での揉め事ではないし、鵬塚は一切関係ない。キムティーのちゃらんぽらんさが招いた揉め事である。
 どうやら、天橋立駅までの運賃は、領収書を持参することで学校側が負担してくれる話になっていたらしい。社会では旅費精算というシステムがあり、それを学ばせることを目的としていたとか。しかし、キムティーはその説明を一切せず、俺ら2年7組を卿都の町に放逐した。当然ながら、大多数は領収書など手に入れるわけもなく、駅員さんに切符を渡してしまって、鈍行で来たのか特急で来たのかが証明できなくなっていた。
 幸い哉、俺ら生徒は十数分で解放され、全員が特急料金を手に入れるに至った。常識的に考えて、特急で2時間程度の旅程を、鈍行で3時間30分もかけるわけがないと、教師陣も判断したが故だった。学年主任の石頭に若干の嫌味を言われるだけで済んだ。
 しかしながら、キムティーは駄目だった。我らが担任は、夕食までの時間全て、学年主任に叱られて過ごしたらしい。自業自得とはいえ、不憫な。
 ちなみに、鵬塚は領収書を手に入れていた。尚子に聞いたらしい。あの野郎、もとい、あのアマ、俺にも教えろよ。
「熊ちゃん。だいじょぶ?」
「……駄目だ」
 夕食の席で女生徒に問われ、教師が弱音を吐いた。相変わらずの反面教師っぷりであった。
 まあ、そういうところが憎めず、生徒にも教師にも好かれる傾向にはあるわけだが……
「それにしても、今日もハンバーグか。先生の誰かが好きなの?」
「んん? いや、聞いたことないぞ。偶然だろ」
 偶然としてしまうには、ハンバーグ率の高さが異常だろう。本当にテキトーな男だな、キムティー。
 ハンバーグ率上昇の原因である鵬塚真依は、もぐもぐと一所懸命に咀嚼している。今回は残さずに食べ切ろうとけっぱっている。何とも微笑ましいことで、平和だ。
 一方で、彼女の兄については、平和と言い切るにはいささか不穏であった。あまりにも連絡が取れなさすぎる。何かあったと見るべきではないか。奴自身がどこかきな臭さを感じるし、権力争いで家が爆破……されたら流石に連絡が来るか。生徒の家が爆破だなんて、修学旅行どころではないな。とすると、もっと秘密裏に拉致監禁して拷問中という可能性がある……のだろうか。ごく一般的な家庭の、ごく一般的な子供で、ごく一般的な生活を送っている身では、あまりにも現実離れし過ぎていて、納得しがたい。寧ろ、鵬塚に構い過ぎて仕事を溜めていたブラコンが、痺れを切らした部下に軟禁されて仕事漬けになっているというオチかもしれない。うん。今までの想像の中で一番しっくりくるな。
「……べ……いの……?
 箸を止めて独りで納得していると、当の妹が小首を傾げて訊ねてきた。
 彼女の前のお膳には、まだまだ沢山の料理が盛られており、人の心配をしている場合ではないように感じる。
「少し考え事をしていただけだ。そもそも、お前、俺より食うもん減ってないぞ」
「……ばる……!
 胸の前で両手を握り、決意してみせる我が親友殿である。
 ま。頑張れ。

 眠れん。
 今は深夜といっていい頃合いだ。草木が眠っているか知らんが、丑三つ時だろう。昼間歩き回ったのだから、疲れて眠くなってもいいはずだが、眠れん。周りの奴らは寝息を立てたり、いびきをかいたり、歯ぎしりをしたり、バリエーションに富みつつ、やかましい。もしや、そのせいか。
 いや、やはり鵬塚兄の件があるからだろう。様々な局面で腹立たしい男だが、なんだかんだで心配だ。
 昨夜に引き続きケータイは没収されているが、ホテルのロビーに電話機が備え付けてあった気がする。今夜は鵬塚兄の番号を控えているので、電話機さえあれば連絡を取ろうと挑戦することは可能だ。こんな時間帯なら、教師陣の見張りも手薄だろう。ちょっとした冒険の旅に出てみるか。万が一、見つかっても、トイレに行こうとして迷ったことにすればいい。部屋のを他の奴が使っていたと言えば、それなりにもっともらしいだろう。
 カバンから財布を取り出して部屋を出る。物音を立てないように抜き足差し足忍び足を心掛けたら、何やら悪いことをしようとしている気になった。少しばかりテンションが上がってしまった。これでは一層、眠れなくなってしまうかもしれない。
 廊下の左右を確認するも、教師の姿はない。流石に、夜通し見張る程、気合いが入っているわけもないか。学年主任辺りならやりかねないのではないか、と戦々恐々していたが、杞憂だったらしい。
 悠々と窓の外を眺めながらエレベーターへ向かう。月明かりに照らされた大海を、大地が分断している。あれが天橋立だろうか。いくら月が地上を微かに照らそうとも、全てが明るみに出るわけではない。当然、世界は判然としなかった。
 そのような曖昧模糊な世界を、影が横切った。困ったことに、見覚えのある影だった。
 急いで、廊下の窓を開けた。
「おい」
 小声で呼びかけると、幸い、影はこちらに気付いた。自分自身が弱弱しい声音ばかり発している故か、他者の抑えた声にも敏感なようだ。
「こんな時間にどこ行くんだよ?」
 まごまご。
 夜空に浮かぶ少女が慌てふためいた。盛大に視線を泳がせていた。
「コンビニでも行く気か?」
 フルフル。
 根がまじめな鵬塚のことだ。流石にコンビニはないと思ったが、案の定だ。そうなると散歩か、もしくは……
「まさか、青林に戻ろうってんじゃないだろうな?」
 コクコク。
 少しばかり不安そうな表情で、数度頷いた。どうやら鵬塚も兄のことが気になり眠れず、電話の存在に思い至り、ロビーへ向かったらしい。
 公衆電話の使い方に四苦八苦しつつ、ようやく小銭を入れることに思い至って、家電の番号を押したら、やはり、鵬塚兄は出なかったという。受話器を下ろして、出てきた小銭を回収すると彼女は、ホテルマンや教師など、誰の視線もないことを確認し、窓から飛び立った。
 それが、つい先頃のことだ。そして、すぐさま俺に見つかり、こうして窓の外に縮こまりながら話をしている次第だった。
 やはり、何だかんだでブラコンだよな、こいつ。いや、今回は仕方がないか。俺だって心配になったしな。
「……さ……で……は……える……ら……
 こいつの飛行速度がどの程度か知らんが、起床時間は7時だ。あと5時間くらいか。卿都と青林を往復できるに足る時間なのだろうか。
 いや、仮に可能なのだとしても駄目だろ。鵬塚兄がどういう状況にあろうと、鵬塚が修学旅行を純粋に楽しめずにいるのは、奴の本意ではあるまい。
 仕方がない。何とかも方便だ。
「行く必要はないぞ」
 わざとらしく欠伸をしてから、肩を竦めてみせた。何も大変なことは起きていないのだと、なるべくのんきな風を装う。
「……で……?
 鵬塚は小首を傾げて、理由を訊ねた。
「俺もさっき公衆電話でかけてみたんだが、永治さんと繋がった。どうも、溜めていた仕事で死にかけているらしい」
「……んと……!
 輝く瞳が眩い。これは、嘘がばれたら、反動が凄そうだ。
「ああ。本当だ。嘘なんて言っても仕方がないだろ」
 実際のところ、ここで嘘を吐く意味は大いにあるので、自分の口から発せられた言葉が空々し過ぎて苦笑してしまいそうになる。悲しい哉、世の中はいくつかの嘘で円滑に回るものなのだろう。
 そのような思いをおくびにも出さずにいると、鵬塚が安堵した様子で、開け放った窓から中に入ってきた。ジャージ姿が寒々しかった。これで青林まで飛んで行く気だったのか。風邪引くだけでは済まんぞ。
 秋も終わりに差し掛かり、もはや冬といっていい時季だ。卿都はまだしも、青林まで続く空は寒気を孕んでいよう。
「とっとと部屋に戻れ。キムティーならいざ知らず、他の先生に見つかったら朝まで正座させられるかもしれないぞ」
 コクコク。
 何度も頷く少女は、早速眠そうに瞳をしばたたいていた。安堵したことで一気に眠気が襲ってきたのかもしれない。
 羨ましいことである。俺はまだ眠気を迎えられない。ひょっとすれば、更に目が冴えてしまったかもしれない。
「……や……み……さ……
 一日を締めくくる挨拶を残して、笑顔の少女が手を振りつつ去って行った。
 こちらも軽く手を上げ、しかし、部屋に戻ることなくロビーへ向かう。鵬塚は家電にかけたとのことだし、ケータイにかけてみる価値はあるだろう。望みは薄いかもしれないが、万が一、繋がれば、俺も心の平穏を得て、眠りの世界へ旅立てるやもしれない。
 辿り着いたロビーはしんと静まり返り、ホテルマンすら姿がなかった。当然ながら、一般客の姿もない。教師の見張りもいない。そのため、物音すら全く立たず、自分の足音だけが耳をついた。
 少しばかりの恐怖を覚えるが、臆病風に吹かれて戻っては、何のためにここまで来たのか。公衆電話に小銭を入れる。メモしておいた番号を押し、数度の呼び出し音を聞く。そのまま、10回、20回と続き、やはり繋がることはなかった。
 諦めて受話器を置き、部屋へと戻る。どうにも、疲労感だけが募る結果に終わった。
 往路と同じく窓の外に視線を送ると、月がいつの間にか姿を隠していた。仄かな月光すら遮られた外界は闇一色で、何もかもが黒々と染んでいた。
 一切の光を失った窓は、不安そうに沈んだ顔をひとつ、映しこんでいた。

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