昨日は何時に眠れたのだろうか。いや、あれはもう今日か。少なくとも三時にはまだ起きていた。時計の針が四を指した記憶はない。とすると、三時から四時の間には眠れたのか。いずれにせよ、六時に目を覚ますには辛い就寝時間である。
「泰司、大丈夫か?」
「……あ?」
「駄目そうだな」
言葉を重ねずともご理解いただけたようで何よりである。少々、会話をする気にならない。人間は眠らずに生きられないのだ。
「……バ……グ……る……?」
親友殿が箸で切り分けたハンバーグを一欠けら、差し出してきた。奴にハンバーグを提供させるなど、今朝の俺は相当な弱りようなのだろう。というか、ハンバーグで体調は治らんぞ。
フルフル。
言葉で拒否するのも億劫なので、鵬塚に倣って首を数度横に振った。
それにしても、鵬塚も二時くらいまで眠れていなかったはずだが、元気だな。せいぜい四時間睡眠だろう。鵬塚兄が甘やかしているため、鵬塚はいつも朝遅くまで眠っているはずだ。四時間睡眠では足りなそうなものだが……
「……っか……も……の……み……ね……!」
なるほど。修学旅行が楽し過ぎてアドレナリン全開のようだ。こいつたぶん、家に帰ったら熱出すな。ガキか。
いや、それも、鵬塚兄が無事だった時の話だ。万が一があれば、帰宅後も緊張状態が続く。兄貴も酷い風邪で寝込んでいるだけなら、特に問題ないのだが、はてさて、その程度でここまで連絡が取れなくなるものか。
くそ。心配が過ぎて眠気が晴れてきた。迷惑な兄妹だ。
三日目は自由行動である。午後五時までに逢坂府梅田のホテルまで辿り着けば、どこを観光しても構わないという。自主性を重んじるというよりも、放任し過ぎな感が否めないのだが、毎年のことらしい。絶対迷子になる奴いるだろ。
いや、他人ごとではない。俺ら自身も迷子になりかねない。一応、GPS付きのスマホを一台、班ごとに配られたが、油断は禁物だ。何より、GPSを所持していない人間がはぐれた日には目も当てられない。特に、鵬塚真依という社会不適合者は黄色信号だ。
七組のGPSは、本来同じ班の奴が所持しているので、尚子が所持している三組のGPSしかないが、三組のGPSを七組の鵬塚が持つわけにもいかない。もしも迷子になったら、スマホを駆使して探し出すしかないか。
「まずは天橋立を軽く見て、それから移動でいいよね? 電車、何時だっけ?」
「十時だ」
GPSを鞄に下げた尚子に、予習ばっちりの仏人が答えた。十時に天橋立を出れば、逢坂に十二時半くらいに着くらしい。
「……こ……き……バ……グ……べ……い……」
そうだな。逢坂といえばたこ焼きだな。ハンバーグも食べようとするのがよく分からんが。お前は本当に全食ハンバーグを目指すつもりか。
ともかく、まだ八時だ。天橋立を見て回るのに異論はない。
「天橋立を自由に散策できるらしいな。神社があるみたいだし、そこ行くか」
クロードの興味は建造物にしかないという。ならば、海を両断している陸地になど、興味は一切ないだろう。
案の定、仏人は素直に同意した。彼以外も特にこだわりはないと見え、コクコクと首肯した。
結論から言おう。天橋立神社はしょぼかった。
いや、流石にバチが当たりそうなので訂正する。慎ましやかだった。青林で近所にある神社と何も変わらず、わざわざ訪れる必要性を感じなかった。
クロードが目的としている建造物も、特に凝った意匠なわけでもなく、見に来た甲斐を感じさせなかった。
「事前に調べて分かっていたことだ。実際に足を運べば何かあるかとも思ったが、まあ、仕方がねえ」
金髪碧眼の少年が大人な意見を口にした。思ったよりも人間が出来ている。少なくとも、尚子よりは出来ている。
頭に衝撃が走った。
「……何をする?」
後頭部にチョップを放った女、速水尚子が後ろに立っていた。
「あんた。また、何か失礼なこと考えたでしょ」
ホントにこいつはエスパーか何かなのか。怖いわ。
とはいえ、馬鹿正直に認める必要はない。
「んなこと考えてねえよ!」
「どうだか! 明らかに視線が失礼千万だったけど!」
何てこった。こいつがエスパーなのでなく、俺が分かりやすすぎたのか。
分が悪い。話を逸らそう。
「おい。クロード。他にも見るとこがあるとか言ってなかったか?」
「……ったく」
よし。悪態をつきながらも、尚子が引き下がった。眠気が晴れたとはいえ、寝不足で少々具合が悪い。尚子に付き合って体力を浪費するのは避けなければいけない。
「ああ。だが、少し遠い。オレだけで行ってくる」
「別に一緒に行けばいいだろ」
コクコク。
「マイはともかく、お前らだと十時の電車までに戻れないぞ」
尚子と俺を青い瞳に映し、クロードが言った。
軟弱扱いされるのは気に食わんが、事実、星選者殿や、彼女と互角に渡り合う奴と比べると、いささか軟弱であることは否めない。特に尚子は酷い。
今度は背中に軽い衝撃が走ったが、無視しよう。攻撃すらしょぼいのだ。残念な女、速水尚子が、クロードや鵬塚の超健脚についていけるわけもない。
「九時三十分に、駅の近くにある智恩寺で待ち合わせるとしよう」
仏人はそう言い残すと、駆け足で天橋立を渡って、対岸へ向かっていった。空を飛ばずに向かう常識くらいは残っていたようで、何よりだ。
名残惜しそうに手を振っている鵬塚を横目に、これからどうしたものかと考える。鵬塚兄に電話しようとしては、昨日の嘘が意味を失ってしまう。SMSは送っておいたが、いまだになしのつぶてだ。
気にしていても仕方がないのだが、はぁ……
「永治さんと連絡、つかないの?」
残念な女が耳打ちしてきた。
「実はな。鵬塚には昨日、テキトーな嘘ついたけどよ」
「聞いた。でも、このままRINEが既読にならないと、また不安になるんじゃない?」
それはそうだ。いくら忙しいという話にしても、誤魔化すのに限界はある。
「っつっても、俺らがどうにか出来ることでもないだろ」
「そうなのよねぇ」
鵬塚兄がどんな状態かも、鵬塚兄を取り巻く事情も、何も分からずに打てる手などない。唯一、鵬塚の気分を誤魔化すことだけだ。それももう手を打った以上、本当にやることがない。
その上、繁華街でもない天橋立で、寺社仏閣に興味のない俺らは、観光という意味でもやることがない。
「……うし……の……?」
小首を傾げて訊ねてくる、俺らの親友殿は、今のところ、のほほんとしている。願わくはそのままで、青林まで帰還して欲しいものだ。
恐らく、この時ばかりはあほな幼馴染と気持ちが一つになったことだろう。
ゆっくりとした歩調で天橋立を歩く。雑談を交えた散策は、朝のさわやかな空気や、青く澄んだ空などの好条件も相まって、想定以上に楽しいものとなった。不安な心も幾分安らいだ。
そうして十数分が経ち、九時になろうかという頃合いだった。
何かが落下し、海を貫いた。
「え?」
間抜けな声を出したのは、尚子だっただろうか。ひょっとすれば、俺自身だったかもしれない。
あまりにも不意な出来事に、頭が追い付かずにいた。
しかし、俺の気持ちが追い付こうと、追い付かなかろうと、時は進む。
落下の衝撃により生じた水の壁が、音を立てて迫ってきていた。