目前に迫っていた水の壁が、一瞬の後に、土の壁へと変化した。何を言っているのか分からないだろうが、俺も分からない。兎に角、字義の通りなのである。色々と不可思議ではあるが、少なくとも、津波に飲まれてしまう事態は免れたようだ。土が水を弾き飛ばしたと思われる、轟轟という水音が耳朶に響いた。
視線を巡らして鵬塚を探す。今回のような不可思議な状況では、あいつが何かをした可能性がまず考えられる。クロードがここにいれば、鵬塚と奴の二択になるが、今は居ない。なれば、一択ではあるまいか。
しかし、俺の予想は誤っていた。
「……ッ」
「鵬塚!」
「真依!」
泥人形のような見知らぬ奴に組み敷かれている鵬塚を瞳に入れ、俺と尚子は駆け出した。
伸ばした手が届こうという時、不可視の壁が俺達を弾いた。
「この子のことは任せなさい。トミヤスタイジ。ハヤミショウコ」
聞き覚えのある声が響いた。
「誰だ!」
「名乗る必要はありませんね」
連れない応えの直後、土の壁が崩れ始めた。崩れた土塊はそのまま巨大な弾丸を形成し、晴天に向けて撃ち込まれた。土の弾丸が天から落ちてくる何かを破壊していた。
どういう状況なのか、全く分からん。土が壊しているあれは何なんだ。まさかミサイルではあるまい。某国の脅威がついに日本を襲ったのだったら、とんでもないことだ。いやそもそも、何故土が弾に成るのか。
状況判断が全く追い付かない。
「彗星ですか。何もこのようなタイミングで落ちて来ずとも……」
彗星?
響く声が解の一つを示してくれた。ミサイルではないからと安心するまでには至らないが、他国からの悪意ある攻撃ではなく彗星なのは好ましい。
『彗星!?』
嘘だ。好ましくない。星の降る朝は浪漫を孕むが、当の星が実害を齎すのならば当然ながらご免こうむりたい。
「え、あ、えっと、あっちに……!」
「こら。大人しくなさい」
尚子が星の落ちていく方向へ不安げな視線を向けた時、何某かの声が注意した。その声が向く先は尚子でなく、鵬塚であったようだ。
いつの間にか増えていた泥人形が、鵬塚の頭と両腕、両足を抑えつけた。
「おい!」
手を伸ばすが、再度、見えない壁に阻まれた。透明な壁を何度も何度も叩くが、どうにもならない。拳の痛みに耐えながら、泥人形たちを睨みつける。その視線の先で、やはり唐突に、白銀の長髪を携えた赤い隻眼の女性が姿を現した。まるで地面から生えたかのような現れ方だった。
女性は只一つの紅玉で鵬塚を睥睨した。
「貴女は手を出してはなりません。余計なことはせず、目を伏せて生きなさい。昔からそう教えて育ててきたでしょう」
「……や……!」
鵬塚が反抗的な態度をとると、泥人形が振り上げた腕を勢いよく叩きつけた。鈍い音が響き、鵬塚が苦しそうにえづいた。
「ま、真依! 真依ィ!」
「かしましいですよ。ハヤミショウコ。トミヤスタイジも無駄な動きは控えなさい」
紅玉がこちらに向いたが、そこに感情をうかがい知ることは出来なかった。女性にはあたかも感情がないかのようだった。
確かに彼女の言う通り、いくら力を込めても鵬塚や泥人形に手を触れられない以上、どんな行動も無意味かもしれない。しかし、だからと言って何もせずにいられるか。
「限りなく無駄な行動ではありますが、その想いを理解せぬわけではありません。せいぜいもがいていなさい」
視線同様に冷たい声が響いた。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……」
あ? プレーヤーを再生した覚えはないぞ。そもそも、このタイミングでそんなことをするわけもねえ。
いや、待て。今の般若心経は、一昨日の風呂でも聞こえたし、そもそも、この声は――
「般若心経と共に肉体的な痛み、精神的な痛み、双方を植え付けておいたのが功を奏しますね。相変わらず、星術を行使する気力が失せますか」
やはりこいつか。腹が立ちすぎてうまく声も出せねえ……!
「……めて……」
「あの方向に星が落ちたとて、貴女の知己は誰も居ませんよ。それは、あたくしが請け合いましょう。わざわざ危険を冒して力を使う意味など皆無です」
「……」
空を行く星はみるみる大きくなって行く。俺らに被害が及ぶ範囲に落ちそうなものは、恐らく、目の前の女が迎撃しているのだろう。先ほどから土塊の弾丸が星のいくつかを粉々に粉砕している。
しかし、ここから遥か遠く離れた場所に落ちるであろう数個の星は、進行を妨げられることなく落ちていく。生じる被害はどれだけのものか。
「人は遅かれ早かれ死にます。何名かにとっては、たまたま本日がその日だっただけのことでしょう」
フルフル!
地面に抑えつけられながらも、鵬塚が必死で首を振った。当然の主張を、何度も首を横に振ることで、繰り返した。
女性は紅々とした瞳を細め、小さく嘆息した。
「聞き分けのない子ですね」
「あんたは真依のこと、なんも分かってない!」
突然の大音声を受け、泥人形がもう一体出現した。泥人形は声の主の脇に現れ、難なく組み伏した。
軽く振り返った女性の紅色の瞳は、もはや無関心ではあり得ず、苛立っているように見えた。
「……しょ……ちゃ……!」
「数か月の付き合い程度で大きな口を叩きますね。ハヤミショウコ。幼少から世話をしていたあたくしが、何を分かっていないと?」
「真依は誰とだって仲良くなりたいの! 真依は誰のことだって好きなの!」
紅玉の中の苛立ちが増したように感じた。
「何を仰りたいのか、訳が分かりません。貴女は思慮深さに欠けるようですね、ハヤミショウコ」
否定はしない。しかし、否定する。
「尚子が直情型馬鹿なのはその通りだが、今回ばかりは正しいだろ。馬鹿はお前だ」
「黙りなさい」
泥人形が更に増え、俺は地面しか見えなくなった。
「他人の命よりも優先されるべきものがあります。馬鹿は――あなた方です」
っくそ。こいつ、尚子よりも直情型馬鹿だろ。
泥人形の力は並大抵でなく、天上を仰ぐこともできない。彗星はどうなっているのか。卿都のどこかに落ちてしまうのか。銀髪紅眼女の言う通り、今日この時、どこかの誰かが命を落としてしまうのか。
そんなことは御免だ。
天津照でも天津内女でも、誰でもいい。しつこく叱られるくらいのことなら、いくらでも耐えてやる。だから、俺の、尚子の、鵬塚の願いを――叶えてくれ。