第5話『学びを修める者』12

 天上を行く星々の軌跡がついに大地へ降り注いでしまったのか、ねじ伏せられている大地を伝って、轟音が鳴り響いた。幸い哉、音はさほど大きくもなく、星々のうちでも極小さなものが墜ちただけであることが窺えた。しかし、街中に墜ちたのであれば、被害が一切ないなどという奇跡はあり得ないだろう。
 突如、土人形が消え去った。顔を上げると、尚子を抑えつけていた奴も消えていた。
「抵抗しないのであれば、本来、力無き者をねじ伏せるのは本意ではありません。星が一つ墜ちたことで諦めたのなら、只、見ていなさい」
 諦めたつもりはない。けれど、今さら俺らに何ができるだろう。これが鵬塚ならば、空へ飛び出して、残る星々を壊すこともできよう。星が墜ちた地へ向かい、傷ついた者を病院へ運ぶこともできるだろう。だが、俺も尚子も、只の人だ。今さら、いや、例え数時間前に事態を把握していたとしても、何もできやしない。
 鵬塚を抑える土人形だけは未だに消えていなかった。彼女はもがき続けているが、その行動が実を結ぶことはなかった。のみならず、不可視の壁もまた未だ存在したままで、俺たちの行く手を阻んでいた。
 尚子は泣いていた。俺は泣きこそいないにしても、絶望に打ちひしがれて、力ない瞳を遠い山裾へと向けた。星はその山に墜ちたらしかった。土煙が上がっているのは窺えるが、せいぜい木々が倒れた程度のように見えた。街中に墜ちるという最悪の事態は避けられたとはいえ、他の星々もまた幸運な末路を迎えるとは限らない。より大きな星が命を奪う結果に至るかもしれないのだ。
 そうだ。こういう時こそ、永治さんだ。いくら総理大臣とはいえ、直ぐに事態を好転させることはできないかもしれないが、俺や尚子よりはある種の力を持ち得ている。今度こそ繋がってくれ。
 呼び出し音は長く長く続き、終ぞ、止まることはなかった。
「っくそ!」
 他に誰かいないか。天津照も天津内女も、連絡先を知らない。天満館先輩と諏訪先輩の連絡先ならば分かるが、遠く青林府にいる上に、先日の騒動の様子から考えて、これ程の事態に対処できるとも思えない。残るは――
 天上で破裂音が響いた。
「!?」
 慌てて天を仰ぐと、星々が数個、消えていた。砕けた星が細かい破片となって大地に降り注ごうとしていたが、その破片たちもまた更に破裂し、空気に溶け込んだようだった。
 謎の女に視線を向けると、彼女は訝しげに、天上を見つめていた。
 こいつが慈悲を見せたのでないとしたら、何が起きているのだろうか。鵬塚は相変わらず大地に抑えつけられたままだ。破裂音を耳にして、星が再び墜ちたと勘違いしているのだろう。より一層もがいている。
「鵬塚、安心しろ。今のは彗星が墜ちた音じゃない」
「……に……あ……た……?
「分からん」
 そうとしか応えられなかった。今のところ、状況が全く分からない。某国のミサイルを迎撃すると言われている我が国の装備が、彗星を砕いたのだろうか。
 結論の出ない思考を続けている間にも、天から降り来る星たちは砕け散っていった。ひとまず、視界に入る星々は全て消え去り、脅威は去ったように思えた。相変わらず状況は読めないが、喜ばしい未来が訪れた。
「終わったの……?」
 尚子が頬を伝う涙を拭いながら誰にでもなく尋ねるが、俺には答えられない。尚子も明確な答えを期待しているわけではないだろう。
 俺らが呆然としている間も、彗星が姿を見せ、或いは土塊の弾丸に砕かれ、或いは何かよく分からない力で砕かれた。この近辺に被害を与えそうなものは女が、そうでないものは何某かが迎撃しているのかと推察できた。
 そうして数分、いや、ひょっとすれば数秒でしかなかったのかもしれないが、とにかく、いくらかの時間が経ち――
「アンヌ=マリー=ベルトワーズ、だな?」
 覚えのある声が、突如、空から下りてきて訊ねた。下りてきた影は、金の髪と青い瞳を持っていた。
 クロードだった。
「クロード=ミシェル=ドラノエ。貴方でしたか。この子の周りで派手な行動は慎んで頂きたいですね」
 銀髪紅眼の女は、クロードの言葉によれば、ベルトワーズという名らしい。ベルトワーズは眉根を寄せて、不機嫌そうに言葉を吐いた。
 クロードは肩を竦め、馬鹿にしたように、口の端を持ち上げた。
「人のこと言えねえだろ。んなことより、手伝え」
 端的に、仏人が助けを求めた。彼は不機嫌そうに顎で空を指し、軽く舌打ちしてみせた。
「あれはオレだけじゃ無理だ」
 空から降り注ぐ星々はほとんど全て、姿を消していた。些末なものは大気圏で燃え尽きているのか、先程までの惨事を思い出さなければ、心躍る浪漫にあふれた光景が天を彩っていた。しかし、そう楽観してばかりもいられなかった。
「おいおい……」
 つい、呆れたように呟いてしまった。それほどにあほらしい光景だった。
 これまでと比べ物にならない大きさの星が、大気圏を抜けて大地へ向かおうとしていた。さながら、映画のワンシーンのようだった。これまで以上に非現実過ぎて、いっそ笑ってしまいそうだ。
「あそこまででけえと、砕き切るまでにジャポネに被害が出ちまう。てめえも手伝え。もしくは、マイを解放しろ」
 クロードの要請を受け、女は嘆息した。
「真依を解放はいたしません。けれど、協力は勿論いたします。あの規模を放っておくわけには参りません」
「……た……も……!
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……」
 女が問答無用で般若心経を唱えた。鵬塚は力の抜けた様子で、土人形に組み敷かれたまま、項垂れた。
「何があろうと、貴女を向かわせるわけにはいきません。あの程度、あたくしに任せて、大人しくしていなさい」
 無機質に宣言して、女が地面に手を触れた。すると、天橋立の一部が盛り上がり、これまでに類を見ない、とてつもなく巨大な土塊の弾が出来上がった。
「左右に割ります。貴方は左を処理なさい。Peux-tu le faire?
「Oh. Je peux me le permettre.
 ベルトワーズは紅色の瞳をクロードへ向け、淡々と訊ねた。一部、フランス語らしき言葉が混じっていた。対して、クロードもまた母国語で応対し、力強く首肯した。
 寸時ののち、天上の巨星が砕けた。ベルトワーズの作り出した土塊が、高速でぶつかった。巨星は彼女の宣告通り、左右に割れ、二分された。
 左の星にクロードが、右の星にベルトワーズが、飛び上がって突っ込んで行った。二つの星は更に細かく砕かれ大地を目指すが、墜ちることなく、どんどんと細かくなっていった。
 恐らくは、彼らが『処理』しているのだろうが、正直なところ、目で追いきれない。数秒と経たずに天上の星へ至った二者は、凡人たる俺の動体視力で追うことなど能わない速度で動いていた。のみならず、方々からは土塊の弾丸が絶えず天上へと向かっており、星の欠片を粉々にするまで砕き続けていた。
「すごい」
 尚子が呟いた。
 確かに、その一言に尽きた。星の脅威はもはや、存在しないに等しかった。

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