第5話『学びを修める者』13

 天上から星々が降り注がなくなって幾ばくかの時が過ぎた。
 やにわに鵬塚も泥人形の拘束から解放され、慌てた様子でチョコマカとベルトワーズのそばから退避した。彼女は尚子の後ろに隠れてプルプル震えつつ、弱弱しい非難の視線をベルトワーズへと向けた。
 ベルトワーズはどこ吹く風で、銀の髪をかき上げながら小さく息をついた。紅き瞳は地面に落とされており、悩ましげだった。
「天橋立の土を使い過ぎましたか。これでは只の浅瀬ですね」
 彼女の言う通り、天橋立はもはや天橋立として認識できない程に地面がなくなっていた。彗星を破壊するために土塊の弾丸を作り出し過ぎたのだろう。
 命の危険を感じなくなったためか、この辺りの観光協会が悲鳴を上げそうだなと、ふとどうでもいいことを思った。
 しかし、ベルトワーズは直ぐに心機一転、つまらなそうに視線を上げた。
「まあ、どうでもいいですね。この程度の景勝が失われたところでどうということもありません」
 お前、怒られるぞ。
 まあいい。実際のところ、今はどうでもいいし、どうにかできるわけでもない。
 9時30分か。智恩寺へ集合する時間だが、図らずも、文芸部メンバーが既にこの場に揃っている。1人余計な人間がいるが、今から天橋立駅へ向かえば、ちょうどよく電車が出るだろう。彗星が墜ちても定刻通りに運航する図太さを、日本人が持ち合わせていればだが。
「永治さんに電話して、国として大々的に企画した避難訓練だったとでも発表してもらうか」
 テキトーな思い付きを呟いたら、ベルトワーズが冷たい視線を投げてきた。彼女の紅い瞳は妙な威圧感がある。
 アンヌ=マリー=ベルトワーズ氏は鵬塚の様子を一瞥し、彼女が尚子の陰でびくびくしているのを確認すると、こちらへ視線を戻した。紅玉はその色合いとは対照的に、冷たい印象を与えた。ベルトワーズは俺の目前まで移動し、耳元で小さく囁いた。
「永治ですか。連絡が取れるといいですね。ところで、ここ数日のハンバーグの材料は何だったと思っているのですか?」
「っ!」
 ……ちょ……っと……待て……おい……
 その時、着信音が響いた。鵬塚のスマホだった。
「……に……さ……
 は?
「おや。タイミングの悪い男ですね。もう少しからかおうかと思っていましたけれど、残念です」
「お前…… 性格悪いな……」
 状況を説明しよう。目の前の性悪女が人肉ハンバーグの可能性を匂わせた直後、当の人肉候補だった鵬塚兄から、鵬塚に対して着信があったのだ。というか、あの野郎も今まで何していやがった。
 トコトコ。
「……み……く……に……ら……
 尚子に隠れてベルトワーズを避けつつ、鵬塚がやってきた。ベルトワーズを恐れているが故か、いつも以上に声が小さかった。よっぽど銀髪紅眼の女が苦手なようだ。
 まあ、それはいい。ずっと音信不通だった言い訳を聞くとしよう。
「もしもし」
『やあ、電話もメールも返せず、すまなかったね』
 少しばかり声の雰囲気が暗い。
『実は、そこにいるベルトワーズさんに軟禁されていたのでね』
「は?」
 予想外の言葉が受話器から流れ、思わずベルトワーズに視線を向けた。彼女は冷めた表情で、鵬塚を見つめていた。見つめられた当人は、やはり尚子の後ろで震えていたが、まあ、今はいい。
『彼女とは真依絡みでどうにも意見が合わなくてね。修学旅行行きの件で、正座させられたまま延々と説教されたよ。いやあ、足がしびれるしびれる。その間、ご飯すら食べさせてもらえず、もう倒れそうだよ。水はもらえたから死にはしないけどね』
「いや、あんたの苦労話はどうでもいい」
 にべもなく言ってやると、彼はしばらく不満を口にしていたが、直ぐにいつも通りの飄々とした口調に戻った。声に覇気を感じないのは空腹のためだろう。しばらく我慢して頂こう。
「彗星の件だけど……」
『NASOの公式会見では予測済みのこととの発表だったよ。混乱を避けるために事前告知せず、秘密裏に対処したそうだ。日本政府も要請に従い、自衛隊の迎撃ミサイルで彗星を撃ち落としたことになっている』
「ことになっている、ね」
 目の前で一部始終を観察していた人間には通用しない言い訳である。
『日本国内の裏での事情としては、天津や国津の力で対処したことにしているけれど、他国が納得しているとは思えない。星選者が関わっていると考え、何かしらの処置を取るだろう。今すぐ真依を退避させて欲しい』
「あたしくの存在を匂わせてはどうですか?」
 突然、ベルトワーズが受話器に顔を近づけて喋った。当然、俺の目前――吐息がかかる程の近さに銀髪紅眼の美女がいる状況になるわけで、大いに緊張した。
 そのような俺の心情など意に介さず、鵬塚兄もベルトワーズも、話をつづけた。
『貴女がいる時点で星選者の存在を匂わせてしまいますよ。日本が災害に対処するのであれば、天津や国津の存在を主張するしかありません。既に照様に連絡し、近在の天津や国津を集めて頂いています』
「ヒカリですか。ヨーコよりも頼りない印象がありますが、まあ、この程度なら対処してくれるでしょう。分かりました。退避します」
「すまん。全く分からんのだが」
「青林に戻ったら永治に聞きなさい」
『今回の場合、僕も分からないことばかりですけどね。彗星がなぜ墜ちたかはNASOでも把握できていなさそうですよ。正直、僕も門外漢過ぎて見当がつきません』
「お黙りなさい。無駄話をしている場合ですか」
 ベルトワーズが冷たい声音で注意すると、鵬塚兄は失敬と一言口にして黙った。
 いまだに関係性はよく分からんが、流石の内閣総理大臣殿も、この規格外な女にはかなわないらしい。態度も偉そうだし、総理大臣よりも上の人間なのかもしれない。
「あたくしの力であなた方を運びます。集まりなさい」
「力って……」
 尚子が戸惑った様子で呟いたが、そんな彼女とまごまごしている鵬塚を、俺とベルトワーズの近くまでクロードが引き連れてきた。
「てめえの世話になるのは気に入らねえが、言っている場合じゃないからな。さっさと移動しろよ」
「クロード=ミシェル=ドラノエ。同郷の先達に対する態度とは思えませんが、まあいいでしょう」
 ということは、ベルトワーズはフランス人なのか。
 要らぬ情報を手に入れた瞬間、視界が一変した。先頃までは自然豊かな情景が広がっていたが、今は近代建築が乱立している。ゴミがそこら中に落ちており、お世辞にも綺麗とは言えないが、どこか都会の路地裏を彷彿とさせる場所である。
「え? 何?」
 辺りをキョロキョロ見まわしているのは、俺と尚子だけだった。鵬塚もクロードも、ベルトワーズも、落ち着き払っていた。
 いや、厳密には、鵬塚は相変わらず尚子の服の裾を掴んで、おどおどとしていたが。
「梅田が目的地だったのでしょう? あとは好きになさい」
 呆然としている一般人にかかずらう気はないと言わんばかりに、ベルトワーズは靴音も立てずに颯爽と歩み去った――かと思いきや、唐突にその姿を消した。現われた時同様、本当に突然のことだった。
 数十分前から今まで、何が起きているのか、本当にわけが分からない。全ては夢なのだろうか。
「何だったんだ、あの女」
「あいつはオレ以上に常識外の存在だ。マイに近い」
 思わず呟くと、クロードが応じてくれた。
 ちなみに、鵬塚が何やらショックを受けた様子だが、放っておこう。ベルトワーズ並みに常識外れと評されたのが不本意なのやもしれない。普段からの自己評価が、社交的とか常識的とかだしな、こいつ。
 そのような星選者殿には構わず、クロードが言葉を続けた。
「どう表現すべきか迷うが、この星の大地を司る存在、とでも言えばいいか。だからこそ、至る所に出現し、至る所にあらゆるものを移動させられる。人としてはどっかおかしくなっちまってるがな」
「大地を司る……存在……?」
 尚子の顔がにやけた。このファンタジー小説かぶれはどうしようもないな。
 しかし、同類気味の鵬塚は、あいかわらず意気消沈している。
 ……ったく。世話の焼ける。
「というか、なあ。なら、ここってどこなんだ? さっきの女の話からして、梅田か?」
「知らん。が、恐らくそうなんだろう。ったく。成相寺をもう少し観たかったんだがな」
 彗星を壊しまくっていた奴の言葉とは思えん。日常と非日常の切り替えが早すぎるだろ。
 まあ、いつまでも引きずっていても仕方がないのは事実だがな。
「逢坂城でも見ればいいだろ」
「そうか。逢坂にはChateau japonaisがあったか。電車で20分程度だったな。よし行こう」
 本当に切り替えの早いフランス人である。しかしまあ、好都合だ。
「そうだな。ついでにたこ焼き屋があったら軽くつまもうぜ。な、鵬塚」
 暗い顔をしていた社会不適合者が、びくりと肩を跳ね上げた。
 戸惑い顔をしていた尚子は、俺の意図を察したのだろう、無理やり破顔一笑し、鵬塚の腕を取った。
「泰司の提案に乗るのは嫌だけど、たこ焼きの買い食いは楽しみだね。ね、真依?」
 一言余計な女だ。まあ、今はいい。
 まごまごしていた鵬塚も、尚子が楽しそうに語り掛け続けると、表情をだんだん明るくした。
 それでいい。
 ベルトワーズがどういう存在かも、彗星が墜ちたことも、今はどうでもいい。こいつが修学旅行を楽しむこと。それが、第一だ。
 そもそも、彗星の一件を鑑みると、修学旅行は中止になる可能性もある。その連絡が来る前に、出来るだけ楽しんでおくべきだろう。
「よし。行くか」
 コクコク。
 いまだに思うところはあるのだろうが、それでも笑顔で頷いた少女を引き連れ、俺たちは梅田の町にくり出した。

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