涙ながるる信仰の夜

 世界の狭間にある魔女集会所。平素であればやや薄暗い印象のある当該集会所なのだが、先日、信仰の魔女と呼ばれる少女を迎えてからは少しばかり健康的な空気が満ちている。
 信仰の魔女は毎日決まった時間に寝起きし、集会所の隅から隅まで掃除をするのである。その健康的な生活態度は、濁った空気をも一掃した。
「イライザ様。お掃除は完了いたしました。洗い物はございませんか?」
「あらあら。皆が浴びてきた返り血を拭いた布があるから、それをお願いしようかしら?」
「はい」
 ぱたぱたぱた。
 とことことこ。にゃー。
 大量の布を抱え、小走りで扉に向かう信仰の魔女。黒猫のジャンヌがそれに続く。
「うふふ。手伝って下さるのですか? ジャンヌさん」
 にゃー。
 ジャンヌと顔を見合わせた信仰の魔女は、にこりと微笑んで扉を開けた。そして、ジャンヌを恭しく先に通してから、続けて外へ出た。
 がちゃ。
 彼女たちのその様子を見送り、集会所の隅でダラダラとジュースを飲んでいた少女は、小さくため息をついた。
「……何だかなー。集会所が綺麗なのは嬉しいけど、なんか落ち着かないわー。薄汚れた壁や床が懐かしく思えてくるぅ」
「くすくす。紅涙ちゃんったら」
 少女の向かい隣に腰掛けた女性が微笑み、言った。
 少女は紅涙の魔女、女性は言霊の魔女という二つ名を有している。
 彼女たちはここ数日、しばらく魔女集会所で世話になることになった信仰の魔女の様子を見に、ちょくちょく訪れていた。
「ねぇ、言霊ねーさま。シンコ、意外と元気ですねー」
「そうね。強い子だわ」
 同意し、信仰の魔女は微笑んだ。しかし、瞳だけは寂しげな色を帯びていた。

「えーっ!」
 魔女集会所でのひと時。建物を覆う暗闇を吹き飛ばさんばかりに声が響いた。
「わたくしと紅涙様で――何でしょう?」
「ワタシとシンコでバカを討伐ってどうしてですかっ! ワタシ、言霊ねーさまと一緒がいいですっ!」
 戸惑った様子の信仰の魔女の言葉を、紅涙の魔女が継いだ。非常に不満げである。
 対するイライザは、ニコニコと微笑んでいる。
「あらあら。紅涙は言霊が大好きですね。けれど、今回は信仰と一緒に行ってもらいます。言霊は都合がつかないようなので」
「でも!」
 なおも食いつこうとする紅涙の魔女。しかし――
「いいですね」
 にこり。
 綺麗な綺麗な笑顔を浮かべ、イライザが念押しした。すると、紅涙の魔女は黙り込み、しぶしぶ頷いた。
「ありがとう。では、こちらの世界へ向かってくれる?」
 すぅ。
 イライザが右手を振るうと、空間に裂け目が生じる。闇が垣間見えた。世界への入り口だ。
「帰りはいつも通りこれで」
 そう口にするとイライザは、キラキラと眩く輝く闇色の玉を手渡した。
「? 紅涙様、これは何ですか?」
「魔女集会所に戻って来るための玉。あーあ、言霊ねーさまが一緒ならこれもいらないのに」
 言霊の魔女は、彼女自身が持つ言霊の魔法で世界に穴をあけることが出来る。
 信仰の魔女も、先日の騒動の折にその光景を目にしていたため、紅涙の言葉に直ぐ納得した。
「さぁ、おしゃべりはそこまで。行ってくれますね?」
「はーい。行くよ、シンコ」
「え、あ、はい。ではイライザ様。行ってまいります」
「ええ。忙しい出立になってしまってごめんなさいね。詳しい話は紅涙に聞いて下さい」
「はい」
 すぅ。
 紅涙、信仰の順番で、闇の裂け目に足を踏み入れた。すると、闇はさっと素早く閉じる。
 魔女集会所に平素の静謐が満ちた。

 ととっ。
 魔女集会所で裂け目に入った順と同様に、紅涙、信仰の順に裂け目から飛び出した。そして、危なげなく着地する。
「な、何だ! 貴様ら!」
 そして唐突に響く誰何の声。
 紅涙の魔女は嫌そうにそちらへ視線を向けた。
「いきなりー? イライザ様ももっと繋ぐ先考えて頂きたいものだわー」
「あの。わたくし、まだよく状況が……」
 と暢気な様子で呟いた2名であったが、共に目を瞠る。
 彼女たちが瞳を向けた先には、半裸の男女がいた。それだけであれば失礼いたしましたと慌てて去るだけであるが、女性が拘束され猿ぐつわを噛まされているとなれば別の反応をせねばなるまい。
「……うわ。最低。魔女として殺す前にやるだけやっとくとか引くわー」
 紅涙の魔女は怒りを通り越してあきれたようで、半歩下がって汚らわしいものを見る目つきで男を見た。
 一方で、信仰の魔女は無言で佇んでいる。
「どこから現れた!? そ、そうか。お前らも魔女だな?」
 そう口にして、男は下卑た笑みを浮かべた。品定めするように紅涙の魔女と信仰の魔女を見た。
 紅涙の魔女は両手で体を抱き、うへぇと舌を出してうんざりした表情を浮かべた。
 そして信仰の魔女は――
 ぱしぃ!
「―−なっ!」
 小気味のいい音が響いた。
 信仰の魔女が、男の頬を張ったのだ。
「恥をしりなさい! 女性に乱暴を働くなど、神がお嘆きですよ!」
「な、何だ貴様! 魔女の分際で神の名を――」
「黙りなさいっっ!!」
「ひぃ」
 情けない声を上げる男。
 そこで――
「何事でございますか!?」
 部屋に武装した者たちが乱入してきた。10名ほどいる。
 先ほどまで怯えていた男は、一転、哄笑した。
「ふはははは! よく来た、お前ら! さあ、やれい!」
「はっ!」
 男の命令に伴い、武装集団は腰のレイピアを抜いた。そして――
 ひゅっ!
 鋭い一撃が、彼らの手近にいた紅涙の魔女を襲う。
「紅涙様!」
「慌てない慌てない、シンコ。寧ろ好都合ってね!」
 焦った声を上げた信仰の魔女に、紅涙の魔女は笑顔を投げる。そうしながら、レイピアの一撃を1歩だけ動いて受け、左手を貫かせた。
 やった、と声が上がる前に、レイピアの使い手を大量の水が包み込んだ。
「がっ」
 ごぽぽぽぽっ。
 口から空気が漏れだし、気泡が上方に駆け抜けていく。やがて、動かなくなった。
「あはっ。ワタシ、痛みが一番泣けるのよー。一撃必殺の攻撃とかしないでくれてありがと」
 魔女は左手人差し指で自身の左目に溜まった涙をすくった。そして、その指を武装集団が佇む方面へと突き出した。
 彼女の指から異形の存在が生じる。
 があああぁあああぁああ!
 巨大なソレはうねりながら飛び出し、武装集団をあますことなく食らい尽くした。
「ああああぁああ!」
「ひぃいいぃ!」
「助けてくれええぇええ!」
 叫びもむなしく、武装集団は直ぐさま肉塊と血だまりに成り下がった。
 その後、異形は満足したようににやりと笑み、ぱんっと弾けた。水が床を濡らす。
 その様子を瞳に写し、信仰の魔女は少しばかり辛そうに顔をゆがめる。しかし、直ぐに厳しい顔を造った。
「……残るは貴方のみです」
「た、タスケテ下さいぃい! お願い、お願いしますぅ!」
 すたすたすた。
 紅涙の魔女が涙を傷口に塗りつけながら歩み寄った。瞬く間にレイピアによる傷は消え去る。魔女は相変わらず呆れた顔を浮かべていた。
 彼女は指に残っていた涙の痕を、女性を捕えている拘束具や猿ぐつわに擦り付ける。すると、それらは焼き切れた。
「ほら。服を正して。やられちゃった後だった?」
 ぶんぶんぶんぶん!
 紅涙の魔女の身も蓋もない聞き方に、女性は混乱した様子を隠すこともなく、髪を振り乱して首を振るった。否定しているらしい。
「そ。よかったね。とはいえ――」
 きっ。
 冷たい笑みを浮かべ、紅涙の魔女は男をねめつけた。まなじりには未だ数滴、涙が残っている。
 彼女は右手をおもむろに上げ――
 すっ。
 しかし、紅涙の魔女の動作を信仰の魔女が止めた。
「なぁに? こんな奴相手でも、まぁた殺すなとか言うわけ?」
 疑問の声。
 それを受けて、信仰の魔女はしばし沈黙する。そうしてから……
 ふる。ふる。
 ゆっくりとした動作で首を振った。
「わたくしが――殺します」
「ひ、ひああぁあいいああぁああ!」
 だっ!
 男が駆けだした。向かう先は部屋の扉である。
 しかし――
 信仰の魔女が瞳に哀しみを携え、両手を持ち上げる。胸の前で手を組み、神に祈りを捧げた。神の癒しの加護は逆流し、殺戮の加護と転じる。
 ぱあぁんっ!
 大きな音がしたかと思ったら、男の体が弾けた。赤黒い肉塊と血が飛び散る。
 部屋には、濃い鉄の臭いが満ちた。

 女性を捕えていたのは、一地方にある村の長だった。村に流行った疫病の原因を彼女ひとりに押し付け、処刑しようとしていたようだった。そういった事情ゆえか、女性が救われて喜んだのは、彼女の祖父のみであった。
「ありがとうございます。ありがとうございます。孫はわしのたった1人の家族なのでございます。孫を失ったら、わしは……」
「お爺様、もうお止め下さい。わたくしどもは当然のことをしただけのことです」
 信仰の魔女が愛しそうに老人を見つめ、言った。
 紅涙の魔女はどうでもよさそうに伸びをしている。
「んなことよりさぁ。あんたらとっとと村出なよ。状況的に村長死んでも意味ないじゃん。この世界だったら、確か西に大きな街があったと思うよ」
「は、はい。イェーメの街ですね」
「生まれ出で、生きてきた村じゃが、孫を疎むならば未練はない。そういたしましょう」
 女性と老人は辛そうに瞳を伏せたが、紅涙の魔女の言葉通り村を出ることにした。選択肢としては、その道しかなかっただろう。
 紅涙の魔女と信仰の魔女は、彼らをしばらく送り、村から数キロ離れたあたりで別れる。
 ……………………………………
 すっかり更けた闇夜を沈黙が支配した。
「殺して――よかったの?」
 口火を切ったのは、紅涙の魔女だった。
 信仰の魔女は苦笑し、小首を傾げる。
「それがこれからのわたくしの現実ですもの。避けてばかりもいられません」
 言った少女は、老人と女性が去った先を見据えた。
 その眉根は、悲痛に歪んでいる。
「なら、なんでそんな顔するのよ」
「……このまま神に見放され、悪魔の使いとなってしまったら、わたくしはもう違うモノになるのでしょうか?」
「は?」
 不可思議な表現を口にした少女に、紅涙の魔女は訝しげな瞳を向ける。
 少女は――泣きそうな顔で苦笑していた。先ほどの老人のしわくちゃの顔を契機として、愛しい者を思い出していた。育ての親である神父を想っていた。
「悪魔の使いとなって、人を沢山殺して、そうして、神父様の教えも心も裏切って、想い出までも亡くして行くのでしょうか? 神父様はご自分を犠牲にしてまでわたくしを救って下さったのに、そのことをきっと後悔してしまうのでしょうね。わたくしの醜さに失望されて――」
 がんっ。
 拳がうなった。
「黙れ。思考が暗い」
 痛みに瞳に涙を溜め、信仰の魔女は呆けた。
 紅涙の魔女は不機嫌そうに腕を組んで佇んだ。
「たくっ。シンコの愛しい存在をもっと信じなよ。ぐだぐだ言ってるけど、つまるところ、ただ会いたい、それだけでしょ?」
 ふっ。
 そこで紅涙の魔女は表情を崩す。ここ数日、信仰の魔女が無理矢理元気よく振舞っていたのだと気付いて、苦笑した。そして、腕を広げる。
「会えない人に会いたいってのは辛いね。泣きたいなら胸貸すよ。なんせワタシ、涙を司る魔女だもん」
 しばしの沈黙。
 しかし、直ぐにしゃくりあげる声が上がる。
「ひっ。うぅ、わああぁああ! うわああぁああんっ!」
 がばっと信仰の魔女が紅涙の魔女に抱きつく。
 紅涙の魔女は腕の中の少女の柔らかな髪を撫ぜる。
「よーしよし。慰めの言葉とかは口にしないからねー。ワタシ、言霊ねーさまと違って口うまくないもん」
「ぐすっ! ふふ。構いませんわ。ひっ」
 魔女の胸に顔を埋めていた少女は、未だ哀しみを携えているようであったが、微笑んだ。涙で濡れた顔はぐちゃぐちゃだったが、晴れやかだった。
 その顔を目にした魔女も、笑った。

 紅涙の魔女は、なんとか落ち着いた信仰の魔女を置いて、半刻ほど出かけた。しかし直ぐに戻り、そのまま、彼女はイライザから貰った闇色の玉を用いて魔女集会所に戻った。

 そして、ある世界では村が1つ滅びたという。その因は、疫病だったとの噂である。

「――死ぬべき奴らって、いるよねー。あはっ」

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