血と肉の終焉

 戦場を駆け抜けるのは、血肉で形成された醜き獣だった。獣は淡々と、ただ淡々と人々を屠っていく。戦士の鎧ごと体を爪で砕き、僧侶のはらわたを食いちぎる。ただでさえ血なまぐさい戦場に、濃い鉄の匂いが満ちていく。
「……ローウェルよ。そのような腐った肉を口にするものではない。腹を壊しても知らぬぞ」
 腕を組んで佇んでいた女性が、眉も動かさずに言い放った。女性の名は、血肉の魔女といった。
「人は懲りぬな。他者を蔑みむことしか知らぬ愚かな生き物よ。いっそ……」
 さっ。
 血肉の魔女が腕を一振りすると、青天を赤が染める。大地に横たわる屍体から血液が昇り立ち、瞬く間に血のカーテンが出来上がった。
「人など滅ぼし尽くすか」
 魔女は不敵に笑んで、血肉を操る右の腕に力を込める。

 さあぁあ。
「……何事だ……?」
 血肉の魔女が訝しげに眉を潜めて天を仰ぐ。
 天空は青を取り戻し、戦場を駆けていた獣が崩れ落ちた。人の血は大地へと戻り、一帯は紅く染まった。
「血肉」
 某かからの呼びかけに、血肉の魔女はギクリと肩を跳ね上げる。
「イライザ……」
 魔女の背後にはいつの間にやら一人の女が立っていた。女の名はイライザ。魔女集会所と呼ばれる世界と世界の狭間に居を構える者である。
「この世界は、一般に悪と呼ばれる者が極端に少なくなりましたね。まさに貴女の尽力によるものでしょう。ご苦労様でした」
 にこりと微笑み、イライザは一歩前に出た。
 ともなって、血肉の魔女が一歩後退する。
「……妾は……すべきことをした」
 童子が言い訳をするように、血肉の魔女は言の葉を絞り出した。その表情は、いっそ怯えているようにも見える。
 一方でイライザはにっこりと微笑む。
「ええ。否定はしませんよ」
 血肉の魔女はギリっと歯ぎしりをした。そして、大地を染めている紅を掬う。
「ローウェルよッ!」
 再び紅き獣が生じた。獣はイライザの喉元へ牙を突き立てんとする――が……
 べちゃ。
「ふふ。血で穢れた唾棄すべき獣に名を与えるなど、貴女は本当に愚かですね、血肉」
 獣はイライザの腕のひと振りで紅に還り、大地を穢した。
「さて、そろそろいいでしょう。血肉、貴女の世界をいたずらに乱すだけの行いは許容の範囲外です。わたくしの世界には必要ない」
「……貴様は最初の時、魔女のおらぬ世界を、蔑む者も蔑まれる者も存在しない世界を見てみたいと言った! 人が居なければ、その世界が出来るではないかっ!」
 血肉の魔女の主張を耳にして、イライザはにっこりと微笑む。
「たしかに、それはひとつの解でしょう。でも――」
 ぱちん。
 イライザが右の手を弾くと、鉄の匂いが満ちる世界が歪む。そうして、やにわに暗闇に包まれた。
「その答えはつまらない」
 暗闇に佇むのはただ一人。彼女は無表情に虚空を見つめ、ようよう踵を返した。
 その日、ひとつの世界と、ひとりの魔女が消え去った。

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