与えられるもの

「貴方達にとって、死とはどういう意味を持つの?」
 女が問うた。
「僕達に……とって?」
「そう。貴方達にとってよ」
 女は繰り返す。
「……………」
「どうして答えないの?」
「答えられないんだよ」
 なおも問いかける女の言葉に、少年は逡巡してからそう返す。
「答えられない?」
「君達にとっての死がどういうものかと問われれば、行儀のいい答え、納得しやすい答え、倫理に反した答え――これも君達にとっての話だけど――そういう答えを口にすることはできるよ」
 少年はそこまで言ってから、一度言葉を区切る。そして、しばらくの後、続ける。
「けどね。僕達にとっての死がどうかと問われると……困るね。そもそも――」
 彼らに死が訪れることなどないわけだから……
「やっぱり、死神は死なないのね?」
「死神?」
 納得したように手を叩いて訊いた女に、疑問のみが貼りついた顔を向ける少年。
「違った? ここに来てから――というより、ここに登ることを決めた時から急に見え出したから、てっきり死を与える死神君なのかと思ってたんだけど」
 女の言葉を聞いた少年は、可笑しそうに笑ってから答える。
「少し違うかな。そもそも、『神』なんていう大仰なものではないよ」
「じゃあ――」
 何なの? と続けようとした女は、しかし口をつぐむ。
「どうしたんだい?」
「……別に。ただ、どうせ聞いたって仕方がないなって思っただけ」
 どうせ記憶などすぐに霧散してしまう。そうでなくとも、知ったところでどうということもあるまい。
 女は一度少年に向けて微笑んでから、歩を進め――
「待って。一応質問に答えとくよ。このままじゃ気持ち悪いから」
 女は踏み出そうとした右足を止め、戸惑った表情になる。というのも、彼女は疑問を口にしなかったはずであった。とすると、今の少年の言葉は――
「行儀のいい答えにしとこうか……」
 少年の小さな呟きは、そんな彼女の戸惑いを打ち消す。なんのことはない。初めの疑問に対する答えだったのだ。
 女は決めた覚悟を引っ込め、もう少しだけ少年に付き合う。
 少年は女に向き直り、口を開いた。
「死は生への循環過程のひとつ。死が訪れることで、生物はこの星に対するただの栄養となり、それによって新たな生が育まれる。死は他の生のために訪れる、避けられない門だよ」
 そこで少年は一息つき、続ける。
「ただし、君達人間にとっては、この単純なはずの死のメカニズムは複雑なものになってしまっている」
「? それは……どういうこと?」
「君達はただ死を死として認識できないだろう? 恐れ、悲しみ、喜……ぶ人は珍しいだろうけど、ともかく、死はただ死という意味だけで存在できなくなってしまった」
 それは……そうなのだろう。死に対する悲哀、嫌悪、忌避…… 反応は様々であるが、単なる無機物となってしまっただけの死体に、一切の感情を持たずに接することができる者はそういない。
 自分の中でそれなりに納得できた女は小さく頷く。
「恐れから宗教的な儀礼に傾倒する者、あるいは不死になる術を求める愚者もいるだろう。愛するがゆえに他者の死を忌避し、憎むがゆえに他者の死を切望し、時に積極性を持ってそれを与える」
 人の死を悼み、人を呪い、人を殺し、人に殺され――
 少年はそこで、意味ありげに女を見詰め、
「そして、現実を厭うがゆえに自らに死を与える」
 女は思わず瞳を伏せ、長く沈黙する。そうしてしばらく経つと、女は再び少年を正面から見詰めて言葉を紡いだ。
「つまり、私達人間にとって死とは、単純なものではあり得ず、色々な目線で見ることで複数の意味を与えてしまう、複雑怪奇なものである――ということ?」
「そうだね」
 少年はそう答えて、にこりと笑った。
「あまり行儀がいい答え、という感じがしないのだけど……」
 女が訝しげにそう言うと、少年は、そうかなぁ、と呟いて目を丸くした。
「あるひとつの観点から見て、死は悲しむべきものだと尤もらしく語るより、正直に、一言で表せられるものではない、と説明する方が、聞く者に問題を提起することになって教育的に行儀がいいと思うんだけど。ある意味」
「つまり――」
 少年の言葉を聞いた女は、見た目十代前半のかの者に瞳を向けたままで口を開く。
「私は貴方に教えを請う形にあったわけね」
 ま、別に構わないけど。苦笑いしつつ呟いて、女はさらに先を続ける。
「でもねぇ、残念ながらもう、大人しく着席して指導を受けるような歳でもないのよね」
 そう答えた女は、少年から一度目を逸らし眼下に目を向ける。忙しなく動き回る『蟻』が見えた。
 そこで少年は再度口を開く。
「そっか…… それなら個人的な、自分勝手なことを言わせて貰っていいかな。……これは教授ではなく、意見だよ」
「どうぞ、お好きな様に」
 女が笑顔で返すと、少年は目つきを鋭くして言の葉を吐き出した。
「悲しむ者が一人でもいるのなら、死を選ぶ行為は最も愚かしいことだよ……」
 今までの小難しい言葉達と違い、ただ頑として告げられた死に対する嫌悪。その差異を可笑しく思いながらも女は――
「私には家族も恋人も友達もいない。悲しんでくれる人はいないわ」
 少年は沈黙し、女は声を立てて笑った。そして――
「そうねぇ。なら貴方が……私の死を悲しんでくれる?」
「……………」
 今度の少年の沈黙に対して、女は淋しそうに笑い、しかし――
「また、会いましょう」
 微笑みながらそう言い、彼女は宙を舞って『蟻』達のもとを目指した。

「ん……」
 女は目を覚ますと見知らぬ部屋にいた。そこに設置されている寝具に横になっていた。
「あ、気がついたのね」
 白衣を身にまとった女性が微笑みかける。
「ここは……?」
「病院よ。貴方は昨日ここに運びこまれて、それからずっと眠っていたの」
 そう言って、女性は女の腕を掴む。
「貴方、運がいいわよ。普通、十階のビルから落ちてかすり傷ひとつないなんてあり得ないもの」
「……そうですね」
 女性に答えながらも、女は少年との遣り取りに頭がいっていた。
 ――なら貴方が……私の死を悲しんでくれる?
 彼女が訊いた時、少年は何も答えることはなかった。しかし…
「今、私がこうして生きていることが、あの子の答えなのかしら?」
「え?」
 小さく呟いた女に、女性は怪訝そうに声を漏らした。
 女はそれに適当に言い訳しながら、今度は心の中でのみ呟いた。
 さようなら――と。
 それを言うべき相手を、彼女はもう見ることができない。

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